可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 木々津鏡・折笠鈴二人展『知らない声が聞こえる』

展覧会『木々津鏡・折笠鈴「知らない声が聞こえる」』を鑑賞しての備忘録
ATSUYA SUSUKI GALLERYにて2025年4月26日~5月6日。

木々津鏡と折笠鈴の絵画を展観。

木々津鏡
《The true direction》(727mm×606mm)は、暗がりの中、横たえた素足の上で、使い捨ての半透明の手袋を嵌めた右手で左手の掌に巻貝を押し当てている場面をフラッシュが当てられたように描く。手袋の皺が寄った右手と巻貝の螺旋構造、左手の人差指の爪の尖った部分と巻貝の先端とが、それぞれ相似となって、画面左下から画面右上へリズミカルに鑑賞者の視線を誘う。対作品と言える《The wrong direction》(727mm×606mm)は《The true direction》と同じモティーフで構成されているが、上下が倒立している点、手の開き(指の折れ)具合、背景の砂(コンクリート?)が描き込まれている点で異なる。地面との距離から立っている様が見て取れる。
表題作である《Hearing the unknown voice》(330mm×652mm)は、サングラスをかけて横たわる少女の顔を右頬の側から描いた作品。左上と右下とを結ぶ対角線の左下側に顔が配され、頭髪、サングラス、鼻、顎が弧状に並ぶ、目が見開かれているのがレンズ越しに見える。作品を特異なものにするのは、顔の上に浮かぶメタリックな輪である。リングの大きさは少女の顔の4分の1ほどだが、クローズアップして描かれた顔に近接するためにかなり大きく感じられる。輪っかは少女の右頬に影を落とす。輪、輪の影、サングラスのレンズなどが相似の関係に立つ。
Praying mantis》(1455mm×1120mm)は、砂浜の潮溜まりを背に立つ少女の上半身を映画いた作品。シルバーの十字架のネックレスが下がり、キャミソールの胸元にはカマキリ(praying mantis)が留まる。少女の顔の前にはクリーム色のヘアゴムのようなものが浮き、少女の前に浮き、透明の流体(凝固した水?)が取り囲んでいる。祈りの姿勢(カマキリ)、十字架との精神的連想からすれば、エクトプラズムとも捉えられる。
snowman》(910mm×1167mm)は、湖畔に立つサングラスをかけた少女の鏡像。風船ガムのようなピンクの膨らみが彼女を覆い隠すように描かれている。「風船ガム」は大小2つがくっついており、「雪だるま(snowman)」に見立てられたのだろう。
SF映画で描かれる未知の世界は既知ないし過去の物事の組み合わせで成り立っている。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)に言わせれば、「語りえないことについては、沈黙するほかない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen)」ということになるだろうか。逆に既存の物事のアナロジーや今までにない組み合わせから未知の物事について語ることがことが可能になる。例えば上下を逆様にするように向きを変えてみるだけでも知らない声を捉える可能性がある。当人の与り知らぬところで捕食は祈祷になるのだ。世界はちょっとしたことで一変してしまうのだ。類比と取り合わせにより未知を感知することが作家の狙いである。

折笠鈴
《このたびはとんだことで》(730mm×910mm)は青空の下、奥のショッピングモールにう向かうくすんだ紫色の車道が描かれる。建物の屋根や道路など一部ははっきり描かれているが、ほとんどのモティーフは擦れた描線によって曖昧で、上から書き込まれた複数の英文(例えば、"That's how I did it.")も読めるか読めないかといったところである。《すべての夜を思い出す》(910mm×650mm)はショッピングモールの店舗の入口に立つ人物を捉えたと思しき作品。人物の他、店の構え、店舗内に並ぶ商品、通路の観葉植物などが辛うじて認識出来るように擦れた線の限られた筆数で表されている。くすんだモスグリーンと褐色の画面に住まいの形がぼんやりと浮かぶ《嫌いなら呼ぶなよ》(450mm×530mm)には、朱色で"If you never touch me again, soft memories will hurt me."と描き込まれている。《家族的類似》(515mm×728mm)にはベッドに腰を降ろして本を読む少女の姿が描かれる。室内にある雑多な物が描き込まれているが判然としない。左手前の黒い壁が部屋を覗き込む感覚を生む。
記憶にある場面を思い起こすとき、そのイメージは作家の描く作品のように模糊としたものになる。細部を思い出そうとすればするほどイメージは遠のいていく。人を構成するのは、そのような曖昧な記憶の蓄積であって、写真や動画に撮り溜めた細部まで鮮明なイメージではない。コンピュータの明晰さとは異なる、記憶の揺らぎや人間の曖昧さ。それは「嫌いなら呼ぶなよ」という言葉が必ずしも禁止を訴えている訳ではないことに通じる。AIは「絶対に押すなよ」を理解できないのである。隙間だらけの人間には、語りうることには、無限の可能性が開けている。また、知らなかった声が聞こえだす。