可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 出口朝子個展『VOICE』

展覧会『出口朝子「VOICE」』を鑑賞しての備忘録
hide galleryにて、2025年4月19日~5月11日。

越前和紙あるいは宇陀紙に鉛筆で描き出したイメージに墨を重ね、時に箔を貼り込んだ絵画て構成される、出口朝子の個展。

《VOICE_Ⅲ》(916mm×600mm)の右上では、2つの線がほぼ垂直に交差し、交点の左下に楕円に近い塊を複数の線条で複数の尖端を持つように立体的に描く。その脇で縦の線は墨により太くなり、さらに下では縦線が途切れるとともに、霞むような墨が配される。画面下部では右から水平の線が延び、墨で塗り潰した円を貫入する。円には複数の線が描き入れられている。縦の直線、横の直線、線条で埋め尽くされた不定形の立体、何より墨で塗り潰した円という強いイメージが画面に安定感を齎し、その周囲に散らされた乱雑な線が動きを作る。
《VOICE_Ⅱ》の左に並ぶ《VOICE_Ⅱ》(916mm×600mm)では右上に垂直の線分が走り、その周囲を複数の乱雑な線が踊る。線分中央付近から左に走る彎曲した短い線文の先には楕円に近い形の箔が押される。箔の左下から線条で埋め尽くした尖端を持つ帯が画面下端に向かって描かれる。画面右側には、その帯に迫るように蛇行する線が、右上の線分の途切れた先から始まって、画面右下の方へ延びて消えていく。
《VOICE_Ⅳ》(730mm×530mm)の下部には上下に分割された長方形があり、その上に接するように鯨幕のようなイメージが配され、角のとれた正方形に近い形の墨の塗り潰しが「鯨幕」の左上に重ねられる。墨の塗り潰しに一部重なるように鉛筆の円が淡く配され、そこから右上に緩やかな線が延びる。その先には単線を重ねるなどした複数のイメージが集まる部分があり、そこから左上に向かい折れる線分、さらに画面左上の縦の線分へと連なる。右上には箔が配される。
《VOICE_Ⅴ》(730mm×530mm)の下部には鉛筆で淡く幅の広い帯が左右に延び、中央附近に鯨幕的なイメージと墨による塗り潰しがある。その上を途中で一旦旋回する線がひだりがわから右側へと延び、その先の画面右端には淡い不等辺四角形が除く。墨の塗り潰しと不等辺四角形に向かって画面左上から3つの直線が走る。その上部には薄い直方体があり、その周囲には有機的とも言える不定形なイメージが複数配される。
他に小画面の「S_VOICE」シリーズ7点(うち1点は3枚組)も並ぶ。
強いて譬えれば、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の《大ガラス(The Large Glass)》に近いと言えようか。もっとも《大ガラス》のように具体的なモティーフはない。抽象度が極めて高く、形から具体的な何かを連想することも簡単ではない。幾何学図形に近い形もあるが、ほとんどは指し示す名が無い不定形のイメージで構成される。鉛筆の描線の動きを目で追うのを楽しむ絵画である。墨が画面を引き締め、時に箔が華やかさを添える。和紙の白が限られたモティーフを支える。
会場に置かれているローベルト・ゼーターラー(Robert Seethaler)の小説『野原(Das Feld)』に着想したという。打ち棄てられた墓地を訪れる男が死者たちの声を聞く物語だ。

 だが、実のところ――男は、死者たちの語る声を聴いていると信じていたのだった。なにを話しているかはわからなかったが、死者たちの声は、あたりの鳥のさえずりや虫の羽音と同じように、はっきりと聞こえた。ときには、いくつもの声の塊のなかから個々の単語や文章の断片が聴き取れるような気もしたが、どれほど懸命に、耳を傾けても、それらの断片が集まって意味を成すことはなかった。(ローベルト・ゼーターラー〔浅井晶子〕『野原』新潮社〔新潮クレストブックス〕/2022/p.7)

「VOICE」シリーズは、まさに「ときには、いくつもの声の塊のなかから個々の単語や文章の断片が聴き取れるような気もしたが、どれほど懸命に、耳を傾けても、それらの断片が集まって意味を成すことはなかった」という作品群である。意味を成すことはなくとも、それでも耳を傾けることにこそ意味がある。
木々津鏡と折笠鈴との二人展は「知らない声が聞こえる」と題されていた。上映中の『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』や『片思い世界』もまた死者たちの語る声を聴く映画と言える。それは決して偶然ではない。文学ないし芸術とは、失われた声を、あるいは聴かれなかった声を聴くためのものなのだから。