可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ネムルバカ』

映画『ネムルバカ』を鑑賞しての備忘録
2025年製作の日本映画。
106分。
監督は、阪元裕吾。
原作は、石黒正数
脚本は、皐月彩と阪元裕吾。
撮影は、渡邊雅紀。
照明は、小川大介。
サウンドデザインは、山本タカアキ。
録音は、藤林繁。
美術は、岩崎未来。
スタイリストは、入山浩章。
ヘアメイクは、赤井瑞希
編集は、小美野昌史。
音楽は、立山秋航

 

冴羽女子寮。入巣柚実(久保史緒里)が帰宅する。鼻歌交じりにコートを脱ぐ。机の上にはPEATMOTHのCD『我蛾』。
かくして先輩は失踪を遂げる。
夜。黒いフード付のパーカーを着た鯨井ルカ(平祐奈)がギターを抱え冴羽女子寮の階段を上がる。ただいま。おかえりなさい。柚実はスイッチでスイカゲームに興じている。ああ、腹減ったあ。食べて来なかったんですか? 寮費の釣りの1500円が無くなったから。最近何でも値上げですよ。バイト2つに増やすかなあ。ルカがバイト情報誌を手に取りペラペラ捲る。コールセンターのバイト、2週間くらいでもう無理って逆ギレして辞めたじゃないですか。ゲーム課金のクレームで怒鳴られるからだよ。週5でバイトする才能欲しい。ルカはバイト情報誌を放り、柚実の膝を枕に横になる。何でも才能って必要なんですね。何か食べるもの作りますよ。柚実が台所に立つ。先行投資は難しいなあ。ちまちまパックご飯を買うくらいなら炊飯器買えてたのに。ドンキで炊飯器6000円で売ってましたよ。3000円ずつ出せば買えます。ルカが眺めるライヴのフライヤーにはチケット3000円とある。3000円は高いよ。寮を出るときに揉めるし。柚実はルカに天丼を運んでくる。どうした、これ? 得意気な柚実。ありがとう、頂きます。入巣は食わないの? 先輩食べて下さい。神かよ。柚実はゲームを再開する。これ中身ないんだけど。天かすと麺汁で作ったんで。この海老の尻尾は? 昼に食べた海老フライの尻尾を三角コーナーから発掘しました。あ、洗いましたよ。気分だけでも味わって欲しくて。美味しい? 馬鹿なの? えっ、七味ですか? 柚実が台所から七味唐辛子を持って来てかけ始める。ルカは柚実を制して食べる。
柚実が眠っているルカを起こす。お腹空きましたよ。冷蔵庫には魚肉ソーセージしかないんですよ。スーパーに一緒に行きましょうよ。スーパーくらい一人で行ってこい。起こしたんだから責任取れ。あいつ呼べよ、貢ぎ男。田口君ですか? そんなんじゃないですよ。柚実が田口に電話する。今から飲みたいからお酒持っておいでよ。車で来いって言っとけ。ルカが電話中の柚実に命じる。…お酒? 私、要る。…はい、よろしくね。電話を終えた柚実にルカが言う。あいつ、おまえのこと好きだよね。まあ、そういうことかな…そういうことですよね? この前英語の講義で2人で組になってクイズを出し合ったんです。私の好きなものぜんぶ当てたんです。ルカの疑念を他所に、柚実は田口とのエピソードを嬉々として紹介し、価値観が同じだと訴え、好意の現われだと結論付ける。
こんばんは! 田口(綱啓永)がやって来た。ご飯来た! ネムルバカの動画見ましたよ、かっこよかったです。

 

入巣柚実(久保史緒里)は大学生。冴羽女子寮で先輩の鯨井ルカ(平祐奈)と相部屋で倹しくも楽しく暮らしている。ルカはロックバンド「PEATMOTH」を組み、ギターボーカルを担当、作詞作曲も手掛ける。バイトこそ長続きせず常に金欠だが、ルカの夢がブレることはない。柚実は大学に通うのと「古本MAX」でバイトする以外にはこれと言って打ち込めることはなく、ついゲームで時間を潰してしまう。最近頻繁に連絡を受けるようになった、語学の授業で一緒の田口(綱啓永)を意識している。ある晩、裕福な田口の差し入れで宅飲みをする。音楽で立ちはだかる壁を超えたいと言うルカに、田口は恋愛も片思いの壁は厚いと溢す。ルカは恋愛なら窓を開けて好きだと叫べばいいと返し、音楽には片思いじゃないことを願いたいと吐露する。ルカは酔いつぶれた2人を置いて1人田口の車で出かけるが、ナヴィゲーション・アプリのナビ子(立花日菜)のミスで見知らぬ岬に辿り着いてしまう。ガス欠で途方に暮れたルカを柚実は直感で迎えに行く。2人が寮に戻ると、まだ部屋にいた田口が窓を開けてルカの名を大声で叫んだ。

(以下では、全篇の内容について言及する。)

ぐだぐだした展開の中に諷刺が効いた青春コメディ。
鯨井ルカはロックバンド「PEATMOTH」のギターボーカルで、作詞作曲も担当している。ルカは天才が易々と超える壁を超えようともがく。天才は始めから壁の向こう側に生まれ落ちているのではないかとの焦燥に駆られつつ。
ルカが意識する壁は演奏技術や音楽性のことでもあろうが、どれだけ多くの人に伝わるかということも含まれていよう。ライヴハウスに客を呼べても、より大きな音楽ホールを満席にできるとは限らない。嗜好は多様であり、その音楽性が刺さる人の数には限りがあるからである。より多くの観客に訴えるためには個性を抑えた万人受けするキャッチーなサウンドが求められる。
「OTレコーズ」タレント部門の荒比屋(伊能昌幸)はルカに光る物があるとスカウトする。もっとも、ルカの可愛らしい声質やルックスと「PEATMOTH」の音楽性がミスマッチと判断したのだろう、ルカをメンバー(儀間陽柄、 長谷川大、高尾悠希)から切り離す。音楽プロデューサーの粳間(吉沢悠)はビジネスを成り立たせるために多くの人に知ってもらうことを優先し、自分の音楽を追求するのは後回しにするようアドヴァイスする。実際、「A。または人間、」名義でポップ路線で売り出すと、瞬く間にルカは人気を博す。
かつてライヴハウスで「PEATMOTH」の先輩のパフォーマンスに圧倒された柚実は、「A。または人間、」としてアイドルのように振る舞う先輩に失望する。だがルカは決して自分の音楽を諦めていた訳ではなかった。ライヴの終盤、アイドルのようなコスチュームを脱ぎ捨て、ギター1本で「PEATMOTH」の代表曲「ネムルバカ」を歌い上げる。
ルカに立ちはだかった壁は自らの嗜好(趣味)と求められる音楽(実益)との間の壁である。その壁はボブ・ディラン(Bob Dylan)を描いた映画『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN(A Complete Unknown)』(2024)においても主要なテーマとして描かれていた。
柚実が眠っているときの鼻歌が「ネムルバカ」の曲になった。柚実には音楽の才能が眠っている。柚実は幼い頃のある体験から生の魚介が苦手になったが、きっかけがあればマイナスだけではなくプラスのスイッチが入ることもあるかもしれない。
田口の友人・伊藤(樋口幸平)は、あらゆるものが可視化(数値化)されてしまう社会で、自分の将来に対して諦めの気持ちを抱いている。だが何もしなければ(「眠るばか」りでは)何も起きない。田口の中にも変化したいという気持ちはあり(変身ベルトを装着している)、ルカは目覚めさせようと伊藤にドロップキックするのだ。
ルカの所属するバンドの名称は"PEATMOSS"ではなく"PEATMOTH"である。CDのタイトルは「我蛾」。そこには蛾(moth)がある。粳間によってソロプロジェクト「A。または人間、」としてプロデュースされた。蛾=蝶が見る人間の夢なのか、人間が見る蛾=蝶の夢なのか。「胡蝶の夢」が組み込まれている。
鯨井ルカは、鯨・イルカ。海生の哺乳類で構成されている。海との結び付きは、田口の車で岬に至ったことで示される。入巣柚実は、イリスが虹(arc-en-ciel)であり、ユミが弓(arc)の音に通じることから、姓名それぞれにarcが隠されている。田口の車で姿を消したルカの居場所を見事に当てたことから、架け橋の役割を担っていることが分かる。ルカは柚実と呼ばずにイリス=虹と呼ぶのだ。失踪したルカを柚実が見つけ出すことが暗示されているとは言えまいか。ルカの中に眠っていた魂を目覚めさせたのは柚実なら、起こした柚実が責任を取るのが筋(道理であり、物語の展開でもある〕というものだ。
柚実を魅了するライヴハウスでのPEATMOTH「脳内ノイズ」のパフォーマンスが良く、もっとPEATMOTHのライヴを見ていたかった。平祐奈はテレビドラマ『しょせん他人事ですから』(2024)でもシンガー役で可愛らしい歌声を披露していた。