展覧会『サブリナ・ホーラク「パラダイスにとても近く」』を鑑賞しての備忘録
Yu Haradaにて、2025年4月19日~5月18日。
巨大な頭蓋骨を攀じ登る女性たちを表した絵画や額縁の外に横たわる裸婦を配した絵画などで構成される、サブリナ・ホーラク(Sabrina Horak)の個展。
《Waterfall》(510mm×535mm)には、陰影をピンクの濃淡で表した裸の女性が、ドミニク・アングル(Dominique Ingres)の《グランド・オダリスク(Grande Odalisque)》(1814)を連想させる姿勢(但し、左右は逆)で描かれている。投げ出した左脚の上に右脚を載せて横たわり、上半身を持ち上げて鑑賞者の方を振り向く姿を左後方から捉えている。女性のイメージはキャンヴァスではなくベニヤ板に描かれ、身体の線に沿って切り出したものだ。彼女の周囲には、彼女の分身である小さな4人の裸体女性が蹲ったり瞑想したりする姿がキャンヴァスに描き切り出して配されている。女性とその分身のイメージは、金色の紐で縛り、青いフリンジを垂らした金色の額縁の上に設置してある。青いフリンジは《グランド・オダリスク》の青い布を連想させる。紐で縛られた額縁は近代における男性による女性支配――男性が女性に対して一方的に向ける眼差しであり、西洋から非西洋への眼差し(オリエンタリズム)とパラレルである――のメタファーであろうか。ならば布から置き換えられたフリンジは滝(waterfall)となって旧弊を洗い流し、額縁の外にいる女性が因襲から逃れたことを表すのかもしれない。"Waterfall"からは、裸体の女性が左肩に担いだ壺から水を流す、アングルの《泉(La Source)》が想起される。壺が女性器を暗示するなら、美の着想源を壺から額縁という絵画に転換することで、ジェンダー・バイアスからの解放が意図されているものと解し得る。
《Maya's hearts》(590mm×575mm)も金色の紐で金色の額縁を縛った上にベニヤ板に描いて切り抜いた裸体女性が配されている。女性のポーズはフランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)の《裸のマハ(La Maja desnuda)》(1797-1800)に近い。横たわる女性には、腕、脇、乳房、鼠蹊部、脚などに大小の赤い心臓が取り付けられ、額縁や女性に金色と血を連想させる赤のフリンジが垂らされている。複数の中心(hearts)を配することで、中心に対する周縁、あるいは理性に対する感情や肉体という二項対立を逃れるものであろうか。《Maya's sister》(405mm×590mm)は、やはり金色の額縁を縛った上に横たわる裸体の女性が取り付けられている。そのポーズはエドゥアール・マネ(Édouard Manet)の《オランピア(Olympia)》(1863)に近い。彼女の身体には色取り取りのラインストーンが鏤められ、右肩、鼠蹊部、脚にそれぞれ緑、青、赤のタッセルが提げられている。タッセルは揺れる。「かざり」は美術の枠組みを捉え直すための視座である。
しかし私は思うのだが、従来の美術史研究は、過去の造形遺産を、あまりにも恒久的なもの、静的なものとして扱いすぎてきたのではないか。仏殿に安置される仏像のような場合はそれでよかろうが、美術作品は、本来、生活の場で用いられるものであったことを忘れてはなるまい。屏風を思い起こしてみよう。用いるということは、たいていの場合、動かすことである。(辻󠄀惟雄『奇想の図譜』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2005/p.242)
《Waterfall》、《Maya's hearts》、《Maya's sister》はいずれも近代の枠組みに対する批判的観点から描かれていると言う点で共通すると言えよう。
《Under the skin》(1640mm×1076mm)はベニヤ板に巨大な頭蓋骨を表して切り抜いた作品である。"under the skin"という画題が示す通り、白骨ではなく皮を剝いでピンクの肉(筋肉)が露出した状態である。その左眼の眼窩に《Waterfall》と同じようなピンクの肌の裸体女性が配される他、ロッククライミングするように、ビキニ姿の青白い肌の女性6人が頭蓋骨を攀じ登る。頭頂部では女性が仰向けに倒れた女性の前で秘儀を行っている。2人の肌はピンク色である。儀式により再生されたのであろうか。そして、青白い肌の女性たちは蘇りを期待して登攀するのだろうか。青い白い女性たちは画布でできている。彼女たちはイメージであるとともに皮膚である。美醜は肌で決まる。それは皮相なことであろうか。絵画においてもまた、美は薄皮1枚で繰り広げられる。何も絵画に限るまい。美は細部に、「かざり」に宿る。《Under the skin》は、現実世界と楽園とは薄い膜1枚で隔てられているに過ぎないことを、いつでも皮膜を突き破りパラダイスに至ることが可能だと訴えるのだ。