展覧会『泥方陽菜「boundary.TXT」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースE〕にて、2025年5月2日~14日。
漫画的に表された少女や幽霊などをモティーフとした絵画と陶彫で構成される、泥方陽菜の個展。
まず目を惹くのが正面の壁の絵画《いちばん欲しいものが手に入らない》(650mm×910mm)である。夜の帷が下りようとする逢魔が時を連想させる赤を背景に、よく似た4人の少女が腕を開いて並ぶ。4人は1人であり、分身であるのかもしれない。赤い目は周囲の光を映しているのだろう。少女たちの身体は、文字通り透き通る白い肌をしていて、体内が赤や緑や黄や青の不定形のパーツで埋め尽くされているのが分かる。4人が恰も1着のクリノリン・スタイルのドレスを共有するように、4人の脚は色取り取りのパーツの山に埋もれている。手に入らない「いちばん欲しいもの」とは何であろうか。《いちばん欲しいものが手に入らない》の左右に配されているのは、大きな翼を持つ、シーツを被った幽霊の陶彫《二度目の死》である。幽霊となった者が翼を生やし天に召されることを表すのだろうか。
《いちばん欲しいものが手に入らない》に向かって右の壁面には、瓜二つの少女2人の胸像絵画《Echo of Myself―When We melted(portrait)》(315mm×410mm)が掛かる。横に並ぶ2人の頭部と身体は癒着している。2人の頭頂部には白い星あるいは人が連なる冠が浮かび、2人の首をそれぞれ透明の襞襟が飾る。この絵画の下には、陶彫の《Echo of Myself―When We melted》(140mm×150mm×65mm)がある。深緑のハイネックのセーターを着た瓜二つの少女の胸像である。頭を寄せ合い、お互いの右手と左手とを胸の前で併せて輪を形作る。一人称単数の"myself"と一人称複数の"we"とを組み合わせたタイトルから判断すると、作家は1人を複数化して表しているようである。
いわば、生命は眼の獲得と同時に、自分から離れることを強いられたのであるこの距離、この隔たりが、精神といわれるもの、霊といわれるものの遠い起源であることは、私には疑いないことに思われる。
私とははじめから、相手のこと、外部のこと、なのだ。鳥が魂の比喩として登場するのは当然なのだといわなければならない。私とは外部から私に取りついたもののことなのだ。これが、魂が身体を支配するという人間の劇、主と奴の劇がはじまる背景だが、それがすでに個体の次元においてはじまっていることに注意すべきだろう。社会は個体の次元においてすでにはじまっているのだ。それも文字はもとより、言葉のはるか以前、おそらく眼が誕生した段階からはじまっているのである。眼は対話の誕生、自問自答の誕生なのだ。
したがって、私とはすでに決定的に媒介されているもの――いわば複数――なのであり、それを唯一の起点として世界を考えることなどできはしない。私を起点に世界の存在を考える特権など、私にはないのだ。私が誰かの生まれ変わりでないなどとどうして断言できるだろう。そもそも、私とは両親の生まれ変わりにほかならないではないか。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.206-207)
私とは「複数」であり、「唯一の起点」ではありえない。少女たちが複数で表されるのは、「私とはすでに決定的に媒介されているもの」であることを示すのではないか。そして、私が「媒介されているもの」であるなら、私と他者とは「入れ替え可能」ということになる。
つまり、母が、たとえば子の頬の歪みを模倣し、模倣そものが快楽であることを知って、子にさらに模倣を促すようになった瞬間、子の頬の歪みが微笑という意味へと転じるということである。いうまでもなく、ここで重要なのは、子の頬の歪みは意識したものでも意図したものでもない、いわば偶然に生じたものにすぎないということだ。だが、それが母によって模倣された瞬間、少なくとも母の側には微笑として意識されたのである。母が子にその反復を促すのは、自身が意識したそのことを子にも意識させようとすることなのだ。そしてそれが子にも意識されるようになるということは、両者の立場が入れ替え可能であることが意識されることと同じことなのである。
子は、母から見られた自分が自分であることを受け入れることによって自己になるわけだが、この自己を自己とする眼は――はじめは手がかりとして母の眼の位置にあるにせよ――そのとき中空にあるとでもいうほかない。そしてじつは、この中空にあって俯瞰している眼のほうが自己なるものにほかならないのだ。だからこそ、自己にとっては自己の身体があたかも外部から与えられたもののように見えてしまうのである。(略)
いずれにせよ、明瞭になって来るのは、人間の身体はじつは自己などというものではまったくないということだ。
(略)
ほんとうは、身体が外部なのではない。自己という現象のほうが外部なのだ。にもかかわらず、人間は逆に考えるのである。容貌も背丈も何もかも外部から与えられたものであるかのように不満を洩らすにいたるのだ。もう少し背丈があれば、もう少し容貌が美しければと思い悩むようになる。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.113-114)
作家は球体関節人形を制作してきたと言う。球体関節人形は、球体関節により身体の部位を自在に動かせる人形である。また、球体関節に自由に身体部位を着脱できる。球体関節人形を手掛けた代表的な作家であるハンス・ベルメール(Hans Bellmer)は、頭部に脚が来るなど、身体部位を入れ替えた作品を制作した。ベルメールは、この交換可能性を身体の部位に留めず、主体の存在と外界との交換へと拡張していたらしい。
ベルクソンの再認は注意する主体がイマージュ記憶の選択に関わることで進められたが、ベルメールのイメージ生成の理論では無意思的な主体の「直観」が重視されることで、主体は次第にことのなりゆきを見守る「見物人」であるほかなくなった。しかし最終的にベルメールは、「無意識でさえも、意識の貯蔵庫であがゆえにつまらない」「偶然によって確認されたのではないものには、いかなる有効性もない」として、「直観」さえも「非合理な同一性」に関わることができなくなった例外的な場合も挙げている。その場合には、もはや個人的な要素が果たす役割はなくなり、「非合理な同一性」は外部の世界からくる「偶然」がすべてを取り仕切って実現されるのだという。
例外的に個人の分担が――つまり個人の解釈の余地が――ゼロにまで還元されると(……)一瞬の間、個人的なものと非個人的なものが交換可能なもの(interchangeables)となる(……)。〔引用者補記:ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』〕
ここでは「時間と空間の中の自我の限界」も廃棄されるような、超越的な体験が語られる。外界からやってくる自分や欲望の対象となる人物の意思が全く関与しないはずの「偶然」が、「個人的」なものを帯びて突如現われるために、主体はまるで自身が外界と同一化したように感じ、自分自身が「交換可能なもの」になってしまう一瞬の間に魅了される。主体はもはや可逆的運動の「見物人」ではなく、その渦中にいる。しかもこの「交換」はブスケとの協働で見たような欲望の対象となる身体の間で起こるのではなく、はるかに広大な外界-「宇宙」との間で行われる。個人的なものを帯びて突如現われる、目をくらませるようなこの外界-「宇宙」を、ベルメールは「思考する、高次の本質(entité pensante, superieure)と呼んだ。こうして『解剖学』第3章「外部の世界」においては、〈交換可能性〉は身体部位や欲望の対象にとどまらず、制作主体の存在とそれを取り巻く世界の間にも機能するものであることが明確に示される。(松岡佳世『ハンス・ベルメール 身体イメージの解剖学』水声社/2021/p.225-226)
ベルメールが冀求した「個人的なものを帯びて突如現われる、目をくらませるようなこの外界-『宇宙』、「高次の本質」が、作家の言う「いちばん欲しいもの」に当たるとは考えられないだろうか。《いちばん欲しいものが手に入らない》の少女たちの眼は外界-「宇宙」が映り込んでいる。そして、意識、さらには無意識までも棄却するベルメールの思想を二重の死と解するなら、陶彫《二度目の死》が絵画《いちばん欲しいものが手に入らない》の左右を飾る理由も明らかになる。
ところで作家はなぜ本展タイトルに、境界(boundary)の名を付したテキストファイルを表す「boundary.TXT」を冠したのであろうか。
視覚革命のもたらした最大のものは距離という猶予――対象からのずれ――であり、猶予の中身として疑うことすなわち思考であり、思考の外在化としての言語、何よりもまず文字すなわち原=文字――世界を意味としてつまり文字として見る能力そしてそれを解釈する能力――にほかならなかった。(略)
(略)
だがそれにしても、視覚革命から言語革命へと加速度的に上り詰めてゆく人類がこの段階で発明した最大のものは、それ以前の生命体にはまったく思いもよらなかったものだった。
それは死である。
言語革命が人間にもたらした最大のものは、死の領域、死者たちの広大な領域である。(略)
(略)
人が現世と来世、この世とあの世を考えるのは、俯瞰する眼とっても、視覚が必要とする距離の内実としての思考にとっても、不可避だっただろう。(略)
思考の領域が行動の領域から自立することと、記憶の領域が自立することとは表裏である。記憶は思考の素材であり、図式化されるものの筆頭である。あの世の体系化は、この世の体系化にこそ役立ったのだ。
言語革命は死後を発明しただけではない。
この世をあの世に変えたのである。
出生した赤子に名を与えることはこの世に位置づけることだが、名は生命とともに消えるわけではない。名はすでになかばはこの世を超えているのである。与えられた名を生きることは生きながらにして死の世界に足を踏み入れることであり、墓を築くことは死者の名をなおこの世にとどめ、大なり小なりそれがこの世を支配することを許すことなのだ。(略)
人は生きるために死という広大な領域を発明し、そのなかに立ち入ったのである。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』講談社/2018/p.478-481)
言語(text)により自他や此岸・彼岸との境界(boundary)を超えられることを、作家は訴えるのであろう。