展覧会『ルイホンネイ・ジョセフィン「愛しき骨の庭」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリイKにて、2025年5月12日~24日。
生命のサイクルの中にある人・植物・動物を一体的に表す絵画と立体作品(焼物・樹脂)とで構成される、ルイホンネイ・ジョセフィン(Josephine H. N. Lui)の個展。「最終的には大地の一部となるという柔らかな必然性を受け入れるための展示」を期して「愛しき骨の庭(Garden of Lovely Bones)」と冠される。
絵画《静かな抱擁》(1165mm×910mm)には、草叢に横たわる女性の姿が表されている。彼女の身体は、左上の頭部から画面右中央の腹部を経て画面右下の大腿部へと、緩やかな弧を描くように配されている。豊かな髪や白いワンピースの皺が草葉と相俟って、生命の流れあるいは循環が表現されている。彼女の首元で丸くなるウサギの毛並みは彼女の衣装の色に近く、動物と人とが同じ命を共有していることが示唆される。何より眼を惹くのは露出した肋骨の作る空洞にキツネが眠るとともに、胸部を草が覆い尽くしていることである。眠りは生と死との両者を含意する。狐を孕む彼女は生命の揺り籠であり、狐が草生した中に眠るのは土に還ることに等しいと言えるからである。人間を含めた動植物全てが地球という閉じた系の中で発生と消滅を繰り返している。
はじめに、わたしたちはみな同じ1つの生きものであった。わたしたちは同じ身体と同じ経験を共有してきた。それ以来、事はさほど変わっていない。生存する形態や方法は多様化した。しかしなお、わたしたちは同じ1つの生であり続けている。何百万年も前より、身体から身体へ、個から個へ、種から種へ、界から界へとこの生は受け継がれている。たしかに生は移動し、形を変えてきた。しかし、あらゆる生きものの生はそれ自身の誕生とともに始まるのではない――生はさらにずっと古いのである。
(略)
(略)あらゆる種が他の多くの種と無数の特徴を共有しているのは、この変様における連続性による。目、耳、肺、鼻、温かい血を持っているということを、わたしたちは何百万もの個体、何千もの種と共有している――そしてそうした形態全体においては、わたしたちは部分的にしか人間ではない。どの種もそれに先んずるあらゆる種のメタモルフォーゼである。別様に生きるために、同じ1つの生は新たな身体と形態を自ら作り上げるのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.6-8)
キー・ヴィジュアルに採用された《静かな抱擁》のイメージは、他の絵画、2系統5点を本作がまとめているとも言える。
骨や死のメタファーであり、なおかつ個体の死によって生命を繋ぐ生物の構造を暗示する。そのような骨をモティーフとした作品に、次の3点がある。
《骨の森にて》(1300mm×800mm)は、薄い灰青の空間で背を向けて立つ女性の上半身像。背景と同色の絹と思しきドレスを身に纏う彼女の背中は大胆に開いているのみならず、脊椎や肋骨が剥き出しになっている。骨の隙間からは様々な植物が生え出る。彼女の身体が「骨の森」であり、狐、梟、鹿、狼、兎、狸などが潜む。地母神的図像と言える。
《やさしき骨の隠れ家》(605mm×500mm)は、左斜め前から捉えた女性の胸像。髪が風に吹き流され、顎の右側から右耳にかけて朝陽が差しピンクに染まる。早朝の淡い灰青の光と同色の衣を羽織る女性の肋骨や頸椎が露わになっている。骨を縫うようにうねりながら伸びる木の幹は苔生す。骨の蔭には鹿や狐が隠れている。
《誰にも聞こえない祈り》(500mm×725mm)は、曇り空の草原に立つ女性の横向きの胸像。雨が近付き強い風が吹く中、目を閉じて立つ彼女の背中の皮膚が割れ、脊椎が覗く。肩や髪に羊の姿がある。
骨を用いず、生死のサイクルを表す作品として次の2点がある。
《荼毘の身》(300mm×300mm)は、水に浮く女性の身体から花が生えている姿を描く。暗闇に比して仄明るい水に仰向けの女性が浮かぶ。乳房、肩、首が自ら出ているが顔は画面から切れて見えない。胸に開いた穴から茎・葉が伸び、傾いだ先に萎れ始めた大きな花が咲いている。枯れゆく花が生命の終焉を表すとともに、火を暗示する。
《土に還る夢》(515mm×360mm)は地面の中から姿を表わす女性の頭を草地に寝そべる女性が太腿を枕にして受け止める姿を描く。草枕とは旅を表す言葉であり、生きることは旅に擬えられる。人間到る処青山有りとも言う。
(略)生物と無生物の間にはいかなる対立もない。あらゆる生物は無生物との連続性において存在するのみならず、無生物が延長されたものであり、無生物のメタモルフォーゼ、その最も極端な表現なのである。
生はつねに無生物の再受肉であり、無機物のブリコラージュ(組み合わせ)であり、1つの惑星――ガイア、地球――の大地的実体の謝肉祭である。この惑星は、ちぐはぐで不統一なみずからの身体の最小の粒子においてさえ、その相貌と存在態様を増殖させて止まない。どの自己も地球のための乗り物であり、惑星が自分で移動せずに旅をするための船なのだ。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.8-9)
絵画に取り囲まれるようにして、台座に載せられたテラコッタが会場に庭のイメージを付与する。《Bieds under my skin》(255mm×355mm×180mm)のような鳥と一体化し女性像、あるいは《Moon mask off》(310mm×210mm×120mm)のように女性の身体に描かれた植物などによって、連綿と続く生命の一体的性格が表現される。のみならず、焼物は土(earth)であり、ガイア(earth)あるいは地球(earth)との一体性が示されるのである。