展覧会『地母神・母なる神』を鑑賞しての備忘録
Hideharu Fukasaku Gallery&Museum(FEI ART MUSEUM YOKOHAMA)にて、2025年5月7日~22日。
浅葉雅子、阿部清子、荒木名月、石原七生、桑原理早、小木曽ウェイツ恭子、東尾文華、藤髙紘子、星奈緒の描く女性像で構成される絵画展。
浅葉雅子
《普通にしあわせ》は、箔の銀色を背景に、水が溢れ出すように蔓を伸ばす植物を活けた壺を描く。壺は斜めに配された3つの絵柄によって覆われる。上から順に、降下する燕、男性に後ろから抱かれる女性、波の中の椿の花である。中段の男女は春画風であるが、床にトマトが転がる中に佇立する女性を描く《Arricle 24》に挿入された浮世絵と異なり、漫画的に表現されている。男性=燕により女性=椿が快楽の波に呑み込まれる謂であろう。
《内から爆ぜる》も《普通にしあわせ》と同じく、銀を背景に蔓を伸ばす植物を活けた、絵の描き込まれた壺が画面一杯に描かれる。画中画には、虹を描いた二曲一隻屏風の前で裸の女性が脚を拡げ、助産師役の猫が赤ん坊を取り上げようとしている。否、猫は手品でも披露するかの如く赤い布で秘部(赤ん坊が顔を覗かせる)を隠すだけだ。近くでは誕生を祝すべく、別の猫が紅白幕を張っている。ガーベラのような花6輪が配され、その花の形により「爆ぜる」イメージが生み出される。
春画やアニメーションなどのイメージを抱えきれないほどたくさん抱える女性の姿を描く《Silence》には、葦手絵よろしく、"silence"、"will not"、"You"などの言葉が鏤められる。"Your silence will not protect you."の謂であろう。他に、老女が春画を描いた壺を抱える《子の声をうるさく思ったこともある》がある。
阿部清子
《仏は常にいませども》は、脚を組んで坐り、右肘を右太腿に載せ頰杖を突く女性像。『梁塵秘抄』法文歌の「仏は常にいませどもうつつならぬぞあはれなる人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ」が彼女の身体に記されていて、彼女の背後には仏の姿がうっすらと浮かび上がり、その黄褐色の光は彼女の身体をも包み込む。
《音波》は紗の衣を着た巫女の坐像。彼女の周囲に波紋が拡がる。《響》は目を伏せた女性の肖像。画面左側に寄せて書かれ、中心には彼女の左耳が位置するが、長い黒髪により隠されている。閉じた目、隠された耳により視覚を封じ、聴覚へと鑑賞者を誘う。《依代》は能面の若女を両手に挟んで掲げる女性の姿を描く。不可視のものを捉えようとする姿勢は、《仏は常にいませども》に通じよう。
《来迎》は薄い布を被った女性の胸のあたりに晨暉を表したもの。山吹色と橙の曙光、文字通り紫で表された紫雲に対し、女性がモノクロームで表されているのは彼女に寂滅を重ねているからであろう。青い光や靄のようなものが拡がる空虚な上半身を持つ女性を表した《帰郷》もまた死出の旅を連想させる。女性の顔を描いた作品《水分神》を併せるのは、死に生(出産)を対置する意図があるのだろう。
荒木名月
《かすかな親密さ》は、群青を背景に女性の顔を描いた上端部分と唐草文様を背景に女性のトルソを描いた残りの部分とで構成される。顔(首)、トルソという断片化は、腰に纏わり付く手、肩にかかる蛇腹折りの紙などによって反復される。だが、顔とトルソの周囲を取り巻く赤い線により2つの画面が繋げられるように、断片化は接続の冀求を惹起する。《さよなら日和》は、深緑の板張りの床に赤い座面の椅子が置かれ、そこに膝を突く少女の脚が描かれる。ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)的室内の奥には、ピンクの背景に牡丹と奇岩とが配される。《海の肖像》は、タッセルに結わえられた赤いカーテン越しに紅白の綱で繋がれた夫婦岩を背景とした少女の胸像。彼女の顔にはカモメが垂直に舞い降りる。《さよなら日和》は少女の上半身を秘匿し、《海の肖像》は夫婦岩相互を切り離しつつ結び合わすことで、《かすかな親密さ》同様、繋がりを暗示する。その意図を直截明らかにするのは、梅の枝を鋏で切ろうとする鶯を描く《永すぎる朝》である。「梅に鶯」は調和の象徴であるが、敢てその結び付きを断とうとして見せるのだ。
頭蓋骨を描いた《答え》が死によって生を喚起し、縞のパジャマで眠る少女を描く《はるかな惰眠》もまた、生が一炊の夢であることを示す。
極論すれば、いずれの作品もヴァニタスと言える。
石原七生
いずれもアルミニウムの板を切り、凹凸による描いた鍛金的な作品で、黒いケースに入れられ輝きが強調されている。
《逆髪》は、女性の顔を最下段に配し、彼女の上に拡がる髪(逆立つ髪)の中に女性の裸体像を表す。裸身の女性が大きな手を差し出しているのは、神だからではないか。唐草など渦を巻く文様などが埋め尽くし、装飾のない女性の肌の滑らかさが引き立てられている。顔と逆髪の主要部分の周囲には、山ないし波、あるいは鳥のイメージが別途切り出したアルミニウムのパーツが配される。
《対蹠地 航海記》は、翼を生やした2人の女性の胸像。中央の等分線で線対称のように組み合わされるが、それぞれはシンメトリーではない。彼女たちは、ヨーロッパの古い地図などに表される風の神々に通じる。唐草など植物の文様などによって埋め尽くされる。渦巻は空気の流れであり、風のイメージらしい。《風人の面》、《羽人の面》などの作品もある。黒い招き猫(大小2点)が併せて展示されているが、そこに記された「くるくる模様」もまた風の表現であろう。
桑原理早
《変身》には、女性が両手を付き、両脚を開いて倒れる姿に、リンゴらしき果実2つを持つ手のイメージが重ねられている。頭が画面左下に、脚(膝あたりまで)が上端に配されることで、倒された印象が強められている。タイトルからフランツ・カフカ(Franz Kafka)の『変身(Die Verwandlung)』を、リンゴを投げつけられたグレゴール
を連想せずにはいられない。
《frying》には、脚を曲げ、あるいは腕を曲げるなどして横たわる4人の女性の姿が組み合わされる。最上段には裸体女性が右下に落ちるように、右下に頭、左上に脚が来るように配される。その下には布を被った女性が横たわる。右側中央に顔を下げた裸体女性の上半身が覗く(下半身は画面から切れて見えない)。画面中央下側には顔を下に向けて右手を後ろに回した女性がいる。1人1人の表現は決して動的とは言えないが、4人が画面に占める位置と微妙な重なり合いにより、傾けた頭や曲げた手脚が運動のイメージを呼び起こす。
《変身》、《frying》が墨や木炭によるモノクロームの画面であるのに対し、《眠りの馳せる》は岩絵具で青い岩のようなものが画面右側に描かれる。その岩に凭れるように女性が横たわる。他方、画面左側には岩から駆け下りる(あるいは落下する)ような、前屈みで脚を曲げた女性の姿が2人配される。連続するイメージによる運動性は、横たわる女性、岩のイメージによる強調される。
《閃く傷》には4人の女性のイメージが重ね合わされている。右下の女性や左中段の女性の上に伸ばされた脚により、落下のイメージを生む。貼り重ねた和紙の破れが灰色の画面に目立つ。破れが傷を連想させる。
小木曽ウェイツ恭子
《"R" for "bird"》は、画面から食み出すほどの大きさの左右反転した"R"を背に、椅子に坐る少女の姿をモノクロームで描いた作品。椅子は画面左側向きで、彼女は右手で右側に垂らした髪を手にし、やや左に顔を向ける。光源は椅子の背後(画面右手上方)にあり、彼女の背中を照らす。《"d" for "bird"》は《"R" for "bird"》と同じ女性の顔を画面左半分に描き、右側の深緑の壁(?)にやや縦長の"d"が表される。《bird》も同じ女性を右斜め前から捉えた胸像で、彼女の着る衣装に図案化された羽搏く鳥がデザインされている。《"B" for "bird"》は背後に灰褐色の左右反転した"B"を配した、左手で頬杖を突くモノクロームの女性の胸像である。恐らく同じモデルだろうが、髪の毛がまとめられていないために印象が異なる。
《birds chirping》は暗い室内にある卓上の皿と花を活けた花瓶とを描いた作品。僅かに青味を帯びた灰色の花瓶からは葉と茎が伸び、一輪の青い花が垂れ下がっている。その周囲には緑の葉が拡がるが、その1枚1枚の葉の形はカエデの葉に近い形で、他の作品に見られる図案化された鳥に似ていなくもない。
《birdS》は、薄暗い部屋のベッドでシーツに包まって眠る女性の姿を、目鼻などの部位を省略した半ば抽象的な表現で描く。彼女の上を褐色のオレンジの輪郭線の図案化された鳥が7羽が飛んでいく。彼女の足(画面右)の側にドアがあり、光が挿し込んでいる。天井に当たる光は雲の浮かぶ空へと変じ鳥はその空へ飛び去るのである。
《I'm a bird, I'm a mother》はやや暗く淡い青緑を背景に、画面右側3分の2を楕円系だけで表したのっぺらぼうの顔を持つ、短髪の女性の頭部が描かれる。マネキン的な表現である一方、やや上方を向き、髪の毛の表現などの筆致と相俟って動的な印象を与える。左上の隅には、朱の水平線と斜線とを組み合わせた、紙飛行機のような抽象的なイメージが配される。飛び立つ鳥であろう。
全ての作品に"bird"という言葉が配されている。精神あるいは生命のサイクルを象徴するものとして"bird"があるようだ。
東尾文華
《儚く強く生きられたなら》は、緑色を背にした和服(?)を着た女性の胸像で、銅版画と木版画とを組み合わせて制作されている。恐らくは黒く細い描線を銅版画で、緑、赤、オレンジ、青などの色を木版画で載せているのであろう。大胆な色の配置や動きのある描線が、鑑賞者の方を振り返る顔の繊細な表現を引き立てる。まさに「儚く強く」のイメージである。《ピンク色の頬が杏色に照らされて》は、紺とオレンジ色とを背景としたチャイナドレス(?)の女性の胸像。幾何学的な形を用いつつ植物を表す衣装、激しい筆致による頭髪、あるいは周囲に散らされた光と影の踊るような線が、ピンク色の濃淡で表現される女性の顔を引き立てる。
《他愛ない練習をしよう》はデコルテを見せる白いドレスを着た女性の胸像。赤味がかった髪三つ編みにして垂らし、前に垂らした左側には赤いリボンが結ばれている。そのリボンは赤い糸で実際に画面に取り付けてある。《何度も膨らむ船》は少女が両腕を左右に拡げて駆ける姿を表わす。三つ編みが結わえられた風船によって浮き上がる。風船と髪の毛を繋ぐ紐がやはり赤い糸で縫い付けられている。《知らない事に怯えてられない》はサクランボの被り物をした7人の姿を表わす。サクランボの軸が赤い糸で表現されている。《気持ちと想像で君の形に触れる》は6本の赤い糸に吊り下げられた電球によって床に映った光を見る少女。光源ではなく映像を見るのは洞窟の比喩にも擬えられよう。イデアを求めんとする少女の気概の表明と見た。青い画面にあやとりする女性を表した《確信できる今だけ重ねて》は毛糸を画面に縫い付けてある。現実主義の彼女は《気持ちと想像で君の形に触れる》の理想主義の少女と対照的だ。
藤髙紘子
異なる額装を施された小画面の女性像で構成される。《白薔薇 紅薔薇》は左上と右下に女性の顔を配し、流れる髪で2人を一体的に描き出している、藤島武二など日本のアールヌーヴォーを連想させる。暗い画面に女性の胸像《咎》の女性の左眼には星七宝のような文様が重ねられている。ピアノを弾く少女を描く《カラモモ》には顔の部分に丸窓の飾り格子から覗くような文様が重ねられ、玩具のピアノを弾く少女を描く《逞》の背景には雪花絞りのような文様が配されている。幾何学的な文様を取り入れる工芸的な感覚はアール・デコ調とも言えよう。円形画面に花々を背景に少女と蝦蟇を描く《カエルの王子》のような比較的明るい作品もあるが、全体に暗く怪しげな雰囲気が充溢する作品が多い。能面・小面の鼻がピエロのように赤らむ《贋小面》、雑多のものの集積によるイメージ《物部》は、映画『移動都市/モータル・エンジン(Mortal Engines)』(2018)の移動都市をジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)風に描き出したよう。グリム童話をモティーフとした《ヨリンデとヨリンゲル》ではピエロのような男の顔を右手前に大きく表し、囚われの(?)女性を奥に配し、囚われの感覚を生み出す。大きな腹を抱えた女性を描く《大兵》、能面のような老女の仮面として表される《狸婆》、赤子を抱える母親の姿が歪む《渾》などでは歪んだイメージにより、この世界そのものを変様させんばかり。絵画自体が魔術なのだ。
星奈緒
隣に藤髙紘子の作品が並ぶせいでもあるまいが、主に鉛筆・水彩絵具を用いて女性をモティーフに明るさや柔らかさを表現する作家の最初に掲げられた作品は《気がかり》である。両手を額に置いた女性がやや俯く様を描く。横長の画面に女性の両腕と肩とにより菱形が形作られ、安定する。例外的に背景が暗く表され、不安は持続するようだ。《まどろみにじむ》はベッドに眠る女性像。下に両手を、左側に下向きに顔を配することで眠りに落ちている印象が高められる。服やシーツの皺の影が柔らかさを感じさせる。《虹の夢をみる》も眠る女性像。画面の右側半分に顔と右手を配し、肩の辺りまでを描く。女性の両目から右手の中程にかけてカーテンの隙間からだろうか、射し込んだ光が当たる。その明るさが印象的である。
《夜は溶けて》と《未来にささやく》はパステルにより描かれた作品。《夜は溶けて》では肌や衣服の暖色と、シーツの寒色の対照により、まどろみから覚めかけた女性がまだ眠りの中から起き出したくない気分を表現する。《未来にささやく》は布を被った女性像。布に包まれている感覚を、黄味と青味で統一された色彩で表現する。