展覧会『野切浅尾個展「月中蟻酸」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年5月19日~24日。
幽鬼・妖怪などをテーマにした絵画や漫画、デカルコマニーなどで構成される、野切浅尾の個展。
《反野雲》(652mm×530mm)は、ビニール傘を差して草地に坐る人物を描いた作品。黒いシャツにデニムのパンツ、黒のブーツを身に付けた人物は、半透明のビニール傘を差し、左膝を抱えて坐る。顔の辺りから茎を伸ばした黄色い花が咲き誇り、顔は判然としない。赤い球体が複数周囲に浮かぶ。人物を囲むように立つ4本の橙色の卒塔婆(?)からは「反野雲」という文字が浮き上がる。霧ないし靄により辺りは霞んでいる。全てはその水の粒子に映し出された幻影かもしれない。また、霧、ビニール傘と入れ籠の関係がある。画題の反は"anti"、野雲を「のうん」と読めば"known"となる。実体を曝かれること(known)に抗して(anti)いる。
《かぐやひめ》(530mm×455mm)には、壁によって仕切られた露天に、ガラス張りの面を持つ立方体の部屋(あるいは箱。ガラスでない面には把手がついている)が設置され、その中に昆虫の脚(?)に支えられた卵がある。箱の周囲を地面から生えた無数の指(人差指か。親指や小指ではない)が取り囲む。壁に取り囲まれた中に、別の空間が拡がる。ここにも入れ籠の関係がある。そして、その世界は天空へと開かれている。月こそ描かれていないが、竹取物語に登場する「かぐやひめ」がタイトルに冠される。卵がかぐやひめなら孵化していても良さそうだが、月の世界の住人であることのメタファーとしては卵は似つかわしい。部屋ないし箱は塗籠に他ならない。指は帝により急派された軍勢(帝の「手」のもの)であろう。否、「月中蟻酸」とのタイトルからすれば、働き蟻に擬えるべきか。
《帯A》(1167mm×803mm)は、4畳半の部屋に下半身が蛇の女が腹を切開して佇む姿を表わす。畳の間を取り囲むのは壁ではなく屏風かもしれない。天井が張られておらず頭上には闇が拡がるばかりだからである。女性の背後には肉塊とも花弁の集積とも見える赤い円あるいは球体が浮かぶ。平安時代の化粧のように見えるのは、額の位置の描き眉のためだ。白粉は用いていない。唇こそ黒っぽいが、口が閉じられているためにお歯黒を用いているかは不明である。彼女は自ら腹部を切り開き、露骨や臓器を露出させる。腹腔内の下部は別の世界が拡がり、白・赤・黄・青の旗が架かり、赤頭巾が透明の膜(あるいは蜘蛛の糸、鳥黐)により身動きが取れなくなっている。さらに赤い棒が長い蛇の腹を切り裂き続けている。赤い円は腸管のようなものとすれば、蛇女自身がこの部屋に呑み込まれたのかもしれない。否、他の作品との関係からすればマトリョーシカ的な入れ籠関係は疑いない。実際、赤頭巾の背後には開きかけた扉が見える。発生生物学的観点からすれば人間の諸器官は腸から派生している。何のことはない。摂取と排泄が生物なのだ。蛇身はその仕組みを端的に表す。そして、作者にとっては、平行宇宙へのワームホールとして蛇身はあるのである。
《境界》(各1303mm×803mm)は、マゼンタと緑の交互の線を繋いで表した菱形を上下に配することで表した空間に、身体の部位が異常に繋がった存在を表した作品。三連画ではなく対の作品であるが、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)の《磔刑の台にいる人物3習作(Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion)》や《ルシアン・フロイドの3習作(Three Studies of Lucian Freud)》の影響が明瞭である。一方が昆虫のような脚を持つことから映画『ザ・フライ(The Fly)』(1986)のテレポッドも連想させる。転送装置もまた一種のワームホールである。
キーヴィジュアルに採用されている《縊鬼》(1303mm×1620mm)は、和服の女性、骸骨、義足、淵、ユリ、ザクロ、月、宇宙などを組み合わせた作品である。主要なモティーフである女性の顔は右目が3つに増殖している。義足は身体の断片化であるとともに身体の接続を表す。深い淵は別世界への通路であり、画面のあちこちに宇宙へ通じる穴が穿たれている。この絵画自体が別世界へ誘う縊鬼なのだろう。
《首》(1167mm×910mm)は、腹に穴を穿たれた鯖(?)、2挺のバイオリン、内臓、複数の腕(手)などが描かれた作品である。バイオリンからは腕が生える。付喪神であろう。バイオリンの近くにあるオレンジの腕はレンズ付フィルムを構えている。また、魚の腹にはドアスコープ(?)が取り付けられている。箸やフォークや持つ手が中空に浮く黒鍵や白鍵を拾うのを監視しているのだろうか。バラバラにされた鍵盤は音楽、延いては宇宙(cosmos)という秩序の崩壊を表す。内臓が浮かぶのも身体という小宇宙(microcosmos)の解体だろう。鯖(サバ)は裁(サバ)きの神であり、一神教的世界観が単眼のレンズに象徴されている。だが鯖(サバ)は包丁に裁(サバ)かれて死んだ。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)よろしく、神は死んだのである。首(シュ)=主(シュ)の不在。ゆえに混沌としているのだ。レンズ付フィルムはレンズとファインダー(撮影者)という2つの目を持つ。ゾロアスター教(ツァラトゥストラ!)における光明神と暗黒神との対立としての世界への移行…などと思いを巡らせてみる。