展覧会『渡辺早代個展「息ができるということ、重力があるということ」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME1-14casにて、2025年5月13日~2025年5月25日。
呼吸と重力を主題に、ガラス、ブロンズ、ラグなどを用いた立体作品5点で構成される、渡辺早代の個展。
《雲の底、月のそこ》は、複数の円弧の連なる半透明のガラス板と、半球状のブロンズから成る作品。大小5つの円が組み合わさった形状のガラス板は半透明で、3つの円の部分にはブロンズの板が取り付けられている。会場の右側にある壁に固定した金具によって壁からも床からも10~15cm程度離れた位置に浮かされている。雲の表現である。入口(通りに面した)側の壁の高い位置には、半球状のブロンズが掛けられている。研磨されておらず、黒っぽい色をしている。月の表現である。ガラス板の「雲」はかなとこ雲の頂部、すなわち対流圏と成層圏の境(地表から10km)を表しているのであろうか。空気がほどんと無くなるのが100km。それに対して月までは38万km。月との関係で見ると、雲の形成される範囲の何と狭いことか。それに比して地球の重力の影響する範囲は遙かに広大である。月もまた地球の重力の影響を受けているからである。
表題作は大小2種類ある。《息ができるということ、重力があるということ Ⅰ》はブロンズの円盤で、半球状の部分で接地して水平に置かれている。鋳放しの円盤は縁だけ磨かれて輝き、コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuși)の《空間の鳥(Oiseau dans l'espace)》を連想させるガラス製の羽根が1本立つ。《息ができるということ、重力があるということ Ⅱ》はより小振りで、「羽根」の取り付けられた側に傾いて置かれている。作品を独楽に見立てれば、Ⅰ(大)が回転状態を、Ⅱ(小)が停止状態をそれぞれ表すことになる。独楽の見立てを前提に、表題作は、底の球が表す地球、地球の周りを飛ぶ鳥としての月、月の円運動を形象化した円盤の組み合わせと言えよう。作家は、呼吸できるのは地表で生活するが故に呼吸と重力とを結び付ける。地球の重力の影響を受ける月は、人類のメタファーともなり得るのである。月のメタファーとしてのブランクーシの《空間の鳥》的形象は、直立する人類となる。光を受けて輝きながら回転する月=人間により、円盤の周囲には光の筋が走る。
《In between the papers #3》は、無色のガラスの線で人の輪郭を象ったものが蝶番で壁に留められ、壁から浮かされて展示されている。透明の人が壁から出て来るような姿で、白いゴーストが赤い枠から出てこようとする映画『ゴーストバスターズ(Ghostbusters)』(1984)のマークを彷彿とさせる。複数の紙の間から飛び出すイメージは、パラパラ漫画のような1種のアニメーション(animationの語源animaもghostの語源gāstもいずれも魂である)である。"paper"は不可算名詞ではないか、betweenではなくamongではないかといった初歩的な英文法の誤りの指摘は当たらない。なぜなら"between the lines(言外の意味)"を重ねた造語と思しいからである。ペラペラとした紙(paper)は層(layer)のメタファーである。地下、水中、宇宙などの重なる中のごく薄い地表という層で何とか呼吸する(≒生きる)イメージが、タイトルに籠められているのである。人の姿を量塊ではなく輪郭線で捉えるのは、そこに空気が入り込むためなのだ。
《心ここにあらず》は、ヘッシャンにタフティングされたクリーム色と濃紺の毛糸で表現された――すなわち、カーペットの製法による――横たわる人物像。濃紺の毛糸は人物の輪郭を、クリーム色は明部を埋め、残りはヘッシャンの地が見えている。心ここにあらず。ではどこにあるのか。浄土ではないか。横たわるのは、禅における「内観の秘法」を表すのであろう。丹田が画面の中心にあるのはそのためである。私のように意味を追い求める――煩悩に囚われる――者を戒める、扁額なのであった。