展覧会『門倉直子「たくさんのひと」』を鑑賞しての備忘録
アート★アイガにて、2025年5月15日~31日。
現実と空想の境界を往き来する少女たちを描く「群像」、思春期の葛藤を少女像に表出する「かお」、苦界の少女たちに手向けたファンタジー「花の街」の3つのシリーズで構成される、門倉直子の個展。個々の作品には作家のコメントが付される。
《女に生まれた帰り道》(727mm×530mm)は、綱渡りする1人の少女と、その背後に拡がる暗緑色の闇に浮かぶ少女たちとを描く作品。《夢の覚め方》(727mm×530mm)は着地する少女と今まさに降り立とうとする少女を画面下部に配し、画面全体に拡がる闇の中に少女たちが犇めく姿を表わす。1本の赤い綱が少女たちの間を通り抜けて地面に垂れる。《てっぺんのない山》(727mm×530mm)は縦長の画面に少女たちを三角形に配する。画面右側には赤い綱がほぼ垂直に降ろされ、途中に1人の少女が掴んで浮き、下では別の少女が綱を手にしている。画面左側の闇の中には無数の少女たちの姿がある。これら油彩画に加え、少女の頭部(髪)と闇の中の10人の少女を描く《お忘れもの》、11人の少女たちが飛来する《転生》の水彩画で「群像」シリーズが構成される。表情や姿勢は異なるが、同じワンピースを着た裸足の少女たちはおかっぱで同じ顔をしている。量産の人形のように類型化されているのは、少女を抽象化する狙いがあるのだろう。《女に生まれた帰り道》の綱渡りする少女のように、あるいは《夢の覚め方》の浮き立つ少女のように、少女は大人になるまでの過渡期の不安定な存在、境界線上の存在と目される。もっとも、儚い少女という画然としたカテゴリーを設けることに対しては疑義が呈される。《てっぺんのない山》が表現するのは、少女が大人という頂上を目指しても、決して辿り着くことができないこと、ではないか。少女はある時点で大人に変化するのではなく持続するのである。少女は少女のまま大人という蜃気楼のような目標を目指して山を登り続けるのである。《夢の覚め方》や《てっぺんのない山》に見える赤い綱は途切れなく続く少女の象徴であり、水彩画の《お忘れもの》や《転生》の少女たちは、少女が少女として再生することを示す。
「かお」シリーズ10点は、《のぼせた磁石》を除き、正面向きの少女の胸像。《怪演》(410mm×318mm)の少女は左右で髪をまとめ水玉のリボンで飾る。左肩には首に近い位置まで白い花のような飾りがある、左右非対称の衣装をまとう。《たくさん学ぶ》(333mm×242mm)の少女は眼鏡をかける。白地に赤の水玉のリボンで髪を飾り、白い大きな襟と青い肩紐の衣装。《聖戦》(333mm×242mm)の少女は黒いリボンと衣装はいずれも水玉模様。《青い決心》(333mm×242mm)の少女は青地に白の水玉のリボンの髪飾りを付け、白地に青と緑のドットの衣装を着る。、髪型や化粧や衣装、背景の色味が異なるものの、皆同じ顔付きをしている。類型化した少女は人形のようで、人形を着せ替え、飾り付けるように、様々なイメージないし物語が重ねられる。例えば、《内的清掃》(333mm×242mm)の少女は切り揃えた前髪に白い絵具が垂らされる。それは汚れか、あるいは漂白液か。彼女の周囲にはやや暗い緑と白の線が輪郭をなぞるように入れられ、内側から発散されるオーラが表現される。
「花の街」シリーズ12点は、遊女と禿たちが楽しげに過ごす様子を描く。《祭りの準備(「花の街」丁未)》(333mm×242mm)は店の中を提灯や布で飾り付けする姿を、《紋日前(「花の街」癸丑)》(333mm×242mm)は豪華な衣装の着付けの場面を、《芝居の稽古(「花の街」己酉)》(333mm×242mm)は常盤御前、静御前、巴御前の芝居を練習する様子を描く。遊郭から出られず短い生涯を送った少女たちに、彼女たちが和気藹藹と楽しむ姿を想像して描き、手向けられた作品群である。
遊女が廓に閉じ込められていたように、他者からの少女に対する眼差しを内面化して少女は少女という枠組みに囚われている。その枠を取っ払うことが狙われているのかもしれない。「たくさんのひと」がいるとき、それぞれの個性は捨象され、量産化される人形のように等しくなる。「たくさんのひと」≒人形の違いを見出す(生み出す)ことで、類型化ないし固定観念の輪廻からの解脱を図るよう迫る作品群である。