可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『LOVEファッション─私を着がえるとき』

展覧会『LOVEファッション─私を着がえるとき』を鑑賞しての備忘録
東京オペラシティ アートギャラリーにて、2025年4月16日~6月22日。

京都服飾文化研究財団所蔵の18世紀以降の衣服を軸に、美術・文学の視点を加味し、服を着ることの意味、延いては人間の存在について考える試み。花々を遇ったドレスや鳥の羽を付けた帽子とともに、毛皮を用いない服や小谷元彦による人毛を用いたドレスを紹介する「自然にかえりたい」、コルセットなど身体加工の歴史を振り返りシルエットの美しいドレスを展示するとともに、歪んだ形態を持つ川久保玲の服を対置する「きれいになりたい」、松川朋奈のドキュメンタリー絵画とともに、ミニマルなデザインに挑んだファッションを取り上げ、ありのままとは何かを問う「ありのままでいたい」、男女の截然とした区別を疑うヴァージニア・ウルフ『オーランドー』の舞台衣装など、同作品に触発された川久保玲の服を取り上げる「自由になりたい」、AKI INOMATAのヤドカリの殻をモティーフとした作品とともに、変身願望を叶えるような斬新なファッションを取り上げる「我を忘れたい」の5つのセクションで構成。

 なぜ、私たちは衣服を着るのだろうか。ひとつの目的は、身体の保護のためである。私たちの皮膚は薄く脆いので、物理的な衝撃や化学的な毒物から傷つきやすい身体を防御しなければならない。薄い皮膚は環境中の温度変化から影響も受けやすい。寒い外気や低温物から身を守って体温を維持したり、逆に強すぎる日差しを避け、日焼けや体温の上昇を抑えたりするために、私たちは何かを着る。
 しかし服を着るのは、生理的な実用性ばかりからではない。衣服は社会的な役割を象徴する働きがある。たとえば、衣服は、地位、所属、役割、年齢、ジェンダーなどの社会的位置を、あたかも記号のように表現する。(略)社会的地位だけではなく、衣服は、宗教、政治、思想を表象する。(略)人間は、衣服という言語を使ってコミュニケーションしてきた。衣服の表現にも。言語のように、さまざまな語彙があり、規則がある。衣服は人間関係に大きな枠組を与えているとさえいえる。(河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.31)

展示の前に掲げられているのが、ルイス・キャロル不思議の国のアリス』の一節(河合祥一郎訳)。「きのうまではいつものとおりだったのに。一晩でわたし、変わってしまったのかしら?」と自分に疑問を抱くアリスの科白である。

 ここで思い当たるのは、『不思議』の中に出てくる、キノコの上に坐り、長い水ギセルを吸っているイモムシから「おまえはだれなんだ」と聞かれた際に、アリスがイモムシに語ったセリフである。
私自身よくわからないんですから。一日の間にこんなに大きくなったり小さくなったり、もうわけがわからなくなっちゃって。(中略)でも、あなただってサナギにならなくちゃいけない日がくるでしょうし――いつか必ずきますよ――その次には今度はチョウになる日もくるでしょう。そうしたら、なんだか変だなって、きっとお感じになりますわ。
アリスは、成女式の過程で体験する変容と、それを直接の原因とするアイデンティティ喪失の不安、境界状態にある修練者のあいまいさを、いずれ同じ目に遭うだろう同類のイモムシに語っているといってよい。(東ゆみこ「アリスは大人になれるのか? 不思議の国の形而上学とイニシエーション」『ユリイカ』2015年3月臨時増刊号〔第47巻第3号〕p.43)

人間はネオテニーである。だが、人は服を着替えることで、昆虫の完全変態よろしく、変身する。ファッションによる変身は世界からの逸脱を指向する。

 もちろん、人間の身体は昆虫のように変化はしないし、ファッションは自然環境に適応するための実用性を追求するものではない。ここでファッションが表現する変身とは、自分を取り巻く人間関係に変化をもたらすような身体性を獲得することである。ファッションは、ひとつの固定的な社会的な役割を表象する衣服――典型的には制服――を軽蔑する。ファッションは、自分を取り巻く人間的・社会的関係を変えるためのものであり、ひとつの固定的な役割から自己を解放する。ファッションの根底にある変身の願望とは、新しい人間関係のなかに生きる新しい自分を創出しようとする願望である。(河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.39)

それではなぜ変身願望を有するのか。役割が固定された伝統的社会とは異なり、自らのアイデンティティを自ら構築する必要があるからである。澤田朋子が扮装して表情を作り証明写真装置で様々な自己を撮影した《ID400》[073]はそのような社会における個人のあり方を映し出す。

 ファッションは他者に働きかけて、他者との関係性を変えることで自己を変え、他者の回路を通じて自己を完成させようとする。それは無根拠な自己を、他者からの承認によって世界に住まわせる。しかし、ファッショナブルな人は、固定的な人間関係に安住することができない。ファッションは不特定多数を誘惑する。それは、特定の誰かにではなく、誰に対しても自分を見るように自分を差し出す。ファッションに身を包む自己とは、そうした不当的多数の人びと、すなわち、誰でもない人々、社会的役割が何であるか分からない人びとともに生きている人間の存在様式である。(河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.41-42)

展示の冒頭を飾るのは、横山奈美の絵画《LOVE》[001]である。"LOVE"を表わすオレンジのネオンサインを描いた作品である。"LOVE"は不特定多数に向けられている。ファッションが不特定多数の誘惑であることを象徴する。

動物を狩り、毛皮を手に入れる。人間の動物に対するそのような眼差しは、人間にも向けられる。動物機械論は人間機械論に通じるのである。小谷元彦による人毛を編んだドレス《ダブル・エッジド・オヴ・ソウト(ドレス2)》[050]は身体機械論を浮かび上がらせる作品である。

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の『マクベス(Macbeth)』に登場する魔女たちの科白「綺麗は汚い、汚いは綺麗(Fair is foul, and foul is fair)」。価値基準が移ろえば、評価は反転する可能性はある。
笠原恵実の大理石を用いた彫刻作品《Untitled Slit #1》[064]がモティーフとする女性の外部生殖器も、かつては崇拝の対象であり、破邪の力を有するものとされた。

 (略)21世紀の社会では、女性生殖器の最もありふれたイメージは、ポルノ業界が押し立てているもので、悪い、恥のイメージである。男性によって男性のために作られたこの姿には、純粋なヴァギナの持つさまざまな美に似たところはほとんどない。たいていは、恥毛を刈りこみ、陰唇を同じ長さに切りそろえ、衛生的にし、無力にして、ポルノグラフィーは女性生殖器の肖像を作りだした。そして、多くの男女は、こうした戯画がヴァギナの正常な姿だと思わされるゆおになった
 これは、生殖と快楽を受け持つ驚異の器官の矮小化された悲しい姿である。しかし、わたしたちが女性の脚のあいだにあるものを恥じ、恐れるかぎり、世界の起源が神聖なものから冒涜へと変わる旅は続くことになる。この恥ずべき態度を改めるには、過去にも現在にも、女性の生殖器が実際に芸術、歴史、科学において、またさまざまな文化と言語において体現しているものを理解し、評価することだ。(キャサリン・ブラックリッジ〔藤田真利子〕『ヴァギナ 女性器の文化史』河出書房新社河出文庫〕/2011/p.101-102)

《Untitled Slit #1》[064]は、ファッションが表層的なものでありながら、開口部となっていることも示唆する。

 新たな皮膚=衣服を作り出すとは、新しい生き物を産みだし、育てることである。ファッションは、パーソナリティの心理学者の想像が到底、追いつかないほどに、はるかに深遠な存在論的出来事である。表面は深淵である。(河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.42)

《Untitled Slit #1》[064]の隣に並ぶのが、川久保玲の「Body Meets Dress, Dress Meets Body」シリーズ[066-070]である。服の一部が異様に膨らまされている。

 規範を逸脱した身体、具体的には妊婦の身体と出産プロセスへの言及を通して、主体の統一性を問いに付し、身体の境界の策定を問題視するこれらのデザイナーたちを私たちがじゅうぶんに理解することができるのは、バフチンのグロテスクというレンズを通じてファッション史を見ることによってのみである。ゴドリー、バウリー、川久保は、きわめて20世紀的なファッションの特徴である閉ざされ「抑制された」身体に挑む作品の制作を行うために、グロテスク、女性らしさ、母らしさのあいだの関係性を再流用(re-appropriate)している。実のところ、バフチンの古典的肉体の定義に順応する〔20世紀的なファッションの〕モデルは、「支配的な」西洋的な思想と表象の伝統に潜んだ女性恐怖との関係で解釈することができる。
 バフチンによると、グロテスクな身体はプロセ(過程)にある身体である。それはすなわち、絶えざる生成の状態にある身体である。反対に、20世紀ファッション的な身体は、バフチンの公的な文化における「古典的な身体」の観念に従っている。
(この規範による肉体はまず第一に、)厳格に完成され、完全に出来上がった肉体である。さらにそれは孤立させる、ただ1つの、他の肉体を区別された、閉ざされた肉体である。そのため、肉体の未完成、成長、増殖の印はすべて回避される。あらゆる突出、分枝は整理され、あらゆる突起は[…]平らにされてしまい、すべての穴は閉じられる。肉体の永遠に完成することのない性質はいわば隠され、秘密にされる。受胎、妊娠、誕生、死の苦悶は通常示されない。年令は可能な限り母体と墓から遠いことが好まれる。[…]対象となる肉体の、完成せる自己従属的個性にアクセントが置かれる。
 そうして、「この規範[古典的な規範]のもたらす観点から見れば、グロテスク
・リアリズムの肉体が醜い、不体裁な形のはっきりしないものと見えるのはまったく明らかである。近代に形成された《美しきものの美学》の枠の中には、この肉体には入りきらないのである」とバフチンは結論づけている。
 このようにバフチンのグロテスク理解は、母らしさと、そしてクリステヴァの主体についてのテクストと一致する。クリステヴァによると、母性はプロセ(過程)にある主体のモデル、すなわちその境界が閉じられていないような主体(実のところ主体が他者を内に受け入れている)をもたらす。したがって精神分析と詩的言語とともに、「他者性が自身のなかへと入りこむことを許す、あるいは包含しさえする」ような「言説のモデル」を最終的に描き出すのである。それによって「社会の境界線を引き直す」ことが可能となり、また自己と社会のなかに他者性を包含することが可能になる。(フランチェスカグラナータ〔安齋詩歩子〕「ミハイル・バフチン グロテスクな身体の形成」アニェス・濾過も不&アネケ・スメリク編『ファッションと哲学 16人の思想家から学ぶファッション論入門』フィルムアート社/2018/p.166-168)

「自己と社会のなかに他者性を包含する」ことは、男女の両性は混ざりあっているという、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)の『オーランドー(Orlando)』へ通じる。青年オーランドーが女の服と女であることを選ぶようになるのと同様、着替えることは変身することだ。

 同一性形成、あるいは内面の成熟の過程は終わりを知らない。なぜなら、どのような状態が同一性形成の完成段階なのか、何が啓蒙の終了のサインなのかということが不分明だから。誰か、あるいは何かが、「とうとうあなたは精神的に成熟しました」とのお墨付きを与えてくれるわけではない。誰かに正解を教えてもらいたくても、誰も正解を知らない。産業化や交通網の発達によって都市化と情報化、コミュニケーションの複雑化が進み、伝統的な生活様式が崩壊してしまった近代社会においては、内面の成熟をおしはかる際の客観的基準、伝統的なイニシエーションのような共同体が定めた公的メルクマールが存在しないからである。成熟の判断は自分自身で下さざるをえないのだ。しかし、判断の際に依拠するものは、不確実かつ不安定な自己であるため、常にこれでいいのかと悩み、迷う。(東ゆみこ「アリスは大人になれるのか? 不思議の国の形而上学とイニシエーション」『ユリイカ』2015年3月臨時増刊号〔第47巻第3号〕p.46)

不確実勝つ不安定な自己を見詰めながら着替え続ける現代人は、常に新しいファッションを必要とするのである。