展覧会『没後70年 坂口安吾展 生き、書き、愛せり。』を鑑賞しての備忘録
実践女子大学香雪記念資料館にて、2025年5月12日~6月6日。
書籍、自筆原稿、雑誌、新聞などの作品とともに書簡や写真など作家自身を偲ぶ資料を通じて、坂口安吾(1906-1955)の生涯を辿る企画。「『坂口安吾』登場」、「戦争の時代へ」、「疾風怒濤の敗戦直後」、「『無頼派』の交友」、「早すぎた晩年」の5章で構成。
【Ⅰ:「坂口安吾」登場】
1906年、代議士で新潟新聞者社長の坂口仁一郎の5男として誕生。新潟県立中学校に進学した1919年頃から谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介ら同時代の文学に接する。1922年に豊山中学(現・日大豊山高)へ転校を機に上京。1927年には悟りを得ようと東洋大学に学ぶが幻滅、鬱病を発症し、アテネ・フランセでフランス語学習へと方向転換。同人誌『言葉』(後に『青い馬』)に翻訳、小説、評論を発表する。小説「風博士」が牧野信一の目に留まり、牧野主宰の『文科』、新進作家の文芸誌『櫻』に参加した。アテネフランセの友人たちが創刊した『紀元』に関わり、編集者・大久保洋の伝で『東京週報』へも寄稿した。
【Ⅱ:戦争の時代へ】
1938年、新潟中学の同級生・大江勲が編集者であった竹村書房から長篇『吹雪物語』を出版。京都の下宿に籠もって執筆したが、「窮屈なぐらゐに審理の隈を追ひ、文学の裏面から人間を逆光的に眺めた特異の作品」(伊藤整の評)はほとんど話題にならなかった(この時期に書いた未発表原稿が2021年に発見された)。『文体』や『現代文学』へ寄稿する中、平野謙・荒正人・佐々木甚一と交流し、「文学のふるさと」や「日本文化私観」をいった評論を発表、戦時下の空気に馴染まない心情を吐露している。
【Ⅲ:疾風怒濤の敗戦直後】
1946年の「堕落論」や「白痴」によって一躍流行作家となるが、GHQの検閲により削除指示(「戦争と1人の女」や発表差し止め(「特攻隊に捧ぐ」)を受けていた。作家の肖像として広く知られる写真は、1947年に林忠彦によって自宅で撮影されたもので、原書でも愛読したラクロの『危険な関係』(伊吹武彦訳)、父仁一郎の伝記『五峰余影』(長兄・坂口献吉箸)なども見える。生活をともにするようになった梶三千代をモデルとした「青鬼の褌を洗う女」など現代小説だけでなく、キリシタンや古代への関心に基づく歴史小説、さらには探偵小説にも取り組んだ。『不連続殺人事件』の『日本小説』連載時には犯人を推理させる懸賞企画も行っている。
【Ⅳ:「無頼派」の交友】
座談会「現代小説を語る」(『季刊文学』)や座談会「歓楽極まりて哀情多し」(『読物春秋』)、林忠彦の写真のイメージなどにより、太宰治や織田作之助らとともに「無頼派」の作家と目される。「不良少年的」太宰治に資質を認め、志賀直哉評などでシンパシーも感じていた。織田作之助に対する追悼文には「小説は、たかが商品ではないか。そして、商品に徹した魂のみが、又、小説は商品ではないと言いきることもできるのである」と記した。石川淳とも親しく、石川淳『鷹』の帯文に讃辞を寄せている。
【Ⅴ:早すぎた晩年】
『文藝春秋』連載の「安吾巷談」や「安吾新日本地理」は好評を博し、この時期には芥川賞の選考委員を務める。「夜長姫と耳男」、「信長」などの小説も執筆。他方で覚醒剤や睡眠剤の濫用は死期を早めることになり、1955年、脳溢血のために急逝した。
福田恆存君の戯曲「キティ颱風」の公演プログラムに掲載された「福田恆存の藝術」は、福田恆存評であり、対照される小林秀雄の評でもある。小林秀雄は対象に没入し、対象の中に自分を溶かし殺すことによって自分を賭けている。作者に対して親切ではあるがちっとも批評していない点で福田と変わらない。小林が小説を書かなくなったのは、人の藝術を発見することによって自分や自分の位置の高さを発見するからだと推察する。
石川淳の「白痴」評(「安吾のゐる風景」)も興味深い。「白痴」は「安吾の全部であった」。部分がいいものも、全体としていいものもあるが、「白痴」は部分・全体ともにいいものである。その結末で主人公が白痴の女と一緒に闇雲に駆け出すということになっている。行く先が漠然としているのだから、尻切蜻蛉に見えなくもない。しかし、これが小説というものの結末に違いない。どこでぶった切っても構わないのだ。エネルギーは結末らしきところからずっと遠くに突き抜け、作品を後ろに置き去りにして、さっさと駆け出してく。そのエネルギーはまた後ろに捨ててきたはずの荷物を貫き、それが荷物の価値になるという仕掛けである。エネルギーの行き先はどこまで行ってもキリがない。白痴はそのような作品である。構成の茫漠としたところに実は力が伸びている。完成という概念は無用の代物である。エネルギーは無限に続くはずだ。