展覧会『鈴木ヒラク「海と記号」』を鑑賞しての備忘録
ポーラ ミュージアム アネックスにて、2025年4月25日~6月8日。
博物館の図録に掲載された図版のうち器や人物彫刻を銀色のスプレーでシルエットにしたイメージを集めた《Casting(Ocean)》、街で見かけた印象的な形を採取したドローイングから100点をモーフィングによってアニメーションとして映像作品《GENGA#1001-#1100(video)》、深い青の画面に銀色の絵具で躍動感を感じさせる線を描き入れた16点組の絵画《海と記号》の3点で構成される、鈴木ヒラクの個展。
表題作《海と記号》は、鑑賞者を取り巻くように青い画面に銀色でイメージを表わした絵画16点(各2000mm×1450mm)を楕円状に吊したインスタレーション。深みのある青は画面の中心から周囲に向かって暗くなる(照明の効果だけではない)。絵具には土も混ぜられて凸凹しており、大地や岩壁を連想させる。銀色の線や飛沫が表わすのは、尖端の開いた精子が向き合うようなイメージや、花火が炸裂するようなイメージ、様々形が渦を巻いて拡がる(あるいは収束する)イメージなど、様々である。銀色のモティーフのない部分に円や波、ハートマークなどの形も浮び上がる。アンリ・マティス(Henri Matisse)の《ポリネシア、海(Polynésie, la mer)》が海と同時に空を表わすように、深い青の画面の中に銀色の光で描かれる抽象的なイメージは、海と宇宙とを同時に想起させる。
《海と記号》を構成する個々の絵画は、作家が過去に手掛けた、赤土で地を作った画面に銀色でイメージを表わす「Interexcavation」シリーズに類する。
2019年に東京都現代美術館で発表した〈Interexcavation〉では、土のざらざらした下地に、光を反射するシルバーのマーカーを用いた。inter+excavation(相互+発掘)という造語は、「かく」行為のなかで発生する、こちら側と対象との相互関係を表わしている。まず「筆蝕」の概念が示すとおり、「書く」行為が孕むベクトルは一方通行ではない。先の尖った道具が対象に触れた接地点から、双方向にベクトルが発生する。こちら側から奥へを押し付ける作用は、あちら側から押し返す反作用を引き起こすのだ。しかしドローイングの力学は、押すだけで終わらない。そこから線を引く。そして何かを引き出す(draw out)のである。そのとき、こちら側は引き出すと同時に、あちら側から引き出されいる。押し合うだけでなく、引き出し合う関係が発生する。
人間が道具を押しつけて刻み込むことによる外の世界への表出=expressは、同時に人間への刻印=impressでもある。そのとき、人間も世界も、新しい刻印を得るのと同時に、何かが引き出されるのだ。このexとinのベクトルのフィードバックは、洞窟壁画の時代から「かく」行為のなかで常に存在している。(鈴木ヒラク『DRAWING ドローイング 点・線・面からチューブへ』左右社/2023/p.133-134)
アントナン・アルトー(Antonin Artaud)がドローイングを通路の開鑿に擬えたが、作家は「線を描くことは、つるつるした表面に真新しい通路を建設することではなく、通り抜けること」として、線をチューブとして捉える(鈴木ヒラク『DRAWING ドローイング 点・線・面からチューブへ』左右社/2023/p.35-36参照)。そして、ドローイングのあり方をあるイメージによって提示する。"Correspondence"と記した下に、点線で円弧を描き、円を"the world"とし、その内側に五角形の頂点と相互を両方向に向いた矢印、さらに五角形に内接するよう両腕・両脚を拡げた人の形を表わし、五角形の各頂点から人の内部にも双方向の矢印が描かれるというものだ。
この図においてドローイングは、描写のための手法ではなく、自然や宇宙の一部として自らを位置づける方法である。世界は輪郭のない、拡張する、変化する過程そのものであり、その時間や空間の広がりのなかに人間がたまたま存在している。自然界の線が人間の内側に入って来たり、内側の線が外の自然に戻っていくといった、線の還流が起こっている。
ここで言う線は、喩えるなら触手である。海の中でイソギンチャクやクラゲが触手を伸ばしているところを想像してほしい。チューブ構造をした人間の身体や精神から、周囲の世界に向けて、触手としての線が伸びていく。同時に、世界からも人間の内側に向けて、触手が伸びてくる。それらの触手は接続され、相互の交通が生まれる。内側と外側は、相互浸透し、互いに変容させ合う関係となる。つまりドローイングは世界と呼応(コレスポンド)するための方法となる。
世界を把握することは、世界と自己と相互翻訳するプロセスであり、それはつまりそのまま自己を把握することになる。宇宙の万物が変化しているように、自ら線を変化させ、枝分かれさせていい。ひとつの型に捉われず、どんどん複数化し、変化する宇宙に自らを開くことが重要なのである。精神を開いておくことを言ったウィリアム・バロウズはこんなことも言っている。「絵を目で見るな、絵にお前の方を見せろ」。この言葉はこうも言えるだろう。「お前が線を描くのではない。線がお前を描くのだ」、あるいは「お前が世界を描くのではない、世界がお前を描くのだ」と。人間が世界をドローイングしているとき、世界の方も同時にドローイングをしているのである。(鈴木ヒラク『DRAWING ドローイング 点・線・面からチューブへ』左右社/2023/p.72-73)
常に相互通行、相互作用を意識する作家は、海と宇宙とが反転する空間を生み出し、鑑賞者をヒトデ(starfish)であると同時に星(star)にする。精神を閉じてはならない。ヒラクのだ。そのとき鑑賞者は作家=ヒラクとinteractionするのである。