映画『我来たり、我見たり、我勝利せり』を鑑賞しての備忘録
2024年製作のオーストリア映画。
86分。
監督は、ダニエル・ヘースル(Daniel Hoesl)とユリア・ニーマン(Julia Niemann)。
脚本は、ダニエル・ヘースル(Daniel Hoesl)。
撮影は、ゲラルト・ケルクレッツ(Gerald Kerkletz)。
美術は、ハネス・ザラート(Hannes Salat)。
衣装は、アナイス・ホーン(Anais Horn)とマーカス・カルコフ(Marcus Karkhof)。
編集は、ゲルハルト・ダオラー(Gerhard Daurer)。
音楽は、マニュエル・リーグラー(Manuel Riegler)。
原題は、"Veni Vidi Vici"。
息を切らし自転車で山道を登る男。ヘアピンカーブに差しかかったところで肩を銃で撃ち抜かれる。そのまま自転車を漕ぎ路肩に退避したところで更に撃たれ、ガードレールの向こうに転落する。猟銃を携えたサイクリング・ジャージーを着たアモン・マイナート(Laurence Rupp)が執事のアルフレート(Markus Schleinzer)とともに倒れた自転車に向かって歩いて行く。アモンは通り掛かったライダーに手を振る。サイクリストたちが急カーヴを下っていく。アモンはアルフレートから自転車を受け取る。リサイクルですね。ご健闘を。猟銃など荷物をアルフレートに任せたアモンは自転車に跨がり歓声をあげながら坂道を下る。
アモンは妻のヴィクトリア(Ursina Lardi)、養女のベラ(Kyra Kraus)、ココ(内田珠綺)らとポロを観戦している。娘のパウラ(Olivia Goschler)が交錯させたが審判はファウルを取らない。パウラはしてやったりの顔を浮かべ、相手チームの選手は中指を立てる。パウラがマレットでボールを打ち込む。
パウラのチームが勝利し、4人のメンバーがシャンパンを掛け合って喜ぶ。
みんな大喜びしている。確かに私の反則は超一流。フェアプレーなんて誰だってできる。ルールに従う? 創造性豊かな私には無理な話。私の成功が正しさを証明してる。反則は犯罪じゃない。たとえ犯罪だとして誰が咎められるの? 反則した人、
それとも見て見ぬふりをした人?
アモンが相手チームのジュリーに話しかける。ファウルだった可能性がある。ファウルでしたよ。娘の代わりに謝らせて欲しい。人生は不公平ね。生意気な奴が勝つんだよ、ジュリー。パウラが言う。次は必ず勝つ! ジュリーが返す。
とにかく父は私を誇りに思ってくれている。まあ、どうでもいいんだけど。父にはおべっかを使う人が沢山いる。投資家の父の歓心を買いたいんだ。
広大な屋敷の中を大はしゃぎで逃げ廻るベラとココをアモンが追いかける。2人を摑まえたアモンは肩に担いで寝室に連れて行く。パパ、降ろして! お腹が空いた! 寝る時間だよ。
怪物たちは寝ているよ。アモンが寝室にやって着てベッドに腰掛けるヴィクトリアの隣に坐る。もう無理。諦めないよ。もう無理よ、ホルモン療法が際限なく続くなんて。パウラがいるわ。それに、ココとベラは手がかかる。
気を付けて下さい、実弾が装填されています。壁にかかる多数の猟銃のコレクションから1挺を手にしたパウラにアルフレートが注意する。曾祖父のものでしょ? 最高の職人技の代物ですよ。明日は一緒にハイキングに行きませんか? パパはまだ私が幼すぎると思ってるの。宿題もあるし。倫理学とか。
倫理学なんて時間の無駄。父は難しい決断を迫られる。父は必要なこと、私たちにとって最善のことをする。たとえそれが犠牲を伴うことになっても。解雇とかそんな類のこと。だから父は自然の中で過ごすのが好き。ワークライフバランスってやつ。
山中で銃声がして悲鳴が上がる。もう1度銃声がして悲鳴が止む。狩猟監視員のアイロス(Haymon Maria Buttinger)が遺体を確認する。猟銃を提げたアモンが足早に山を下っていくのが見える。おい、止まれ! お前のことは分かってるぞ! 逃げるがいい! 俺がお縄にしてやる! 年貢の納め時だ、マイナート!
投資家のアモン・マイナート(Laurence Rupp)は目下ヨーロッパ最大のバッテリー製造工場「アンペール」建設を目論み、カール・ザレス(Manfred Böll)のバルタ・バッテリーの買収を企てる。独占禁止法に抵触しないよう所轄大臣のクラウディア(Johanna Orsini-Rosenberg)に根回しを行う。アモンは有能な弁護士である後妻ヴィクトリア(Ursina Lardi)、先妻との間の娘パウラ(Olivia Goschler)、養女のベラ(Kyra Kraus)とココ(内田珠綺)を溺愛し、家族サーヴィスに余念が無い。クラウディアとの実子を望むアモンは、クラウディアが辛い不妊治療に耐えかねるため代理母出産に切り替える。アモンの息抜きは10年来の執事アルフレート(Markus Schleinzer)のみを伴う狩猟で、獲物は人間だった。狩猟監視員のアイロス(Haymon Maria Buttinger)は連続銃殺事件の犯人はアモンだと確信しているが、地元警察はアイロスの訴えに聴く耳を持たない。記者のフォルカー(Dominik Warta)は独自に事件を追い、アモンに辿り着く。
(以下では、全篇の内容について言及する。)
未来予測の直観に秀でリスク許容度が高いと自負するアモンは投資家として成功を収め、恩師からシュンペーター賞を授与される。クラウディアを始め政界要人への影響力は絶大で、企業買収で独占禁止法に当たらないよう手を廻すのも容易である。猟銃で人を撃つのが趣味で、次々と仕留めていくが、司直にも手が廻してあるため、捜査機関が動くことはない。
アモンは、付き纏う記者のフォルカーに対し、犯人が自分であると皆知りながら誰も止めないと言い放ち、お前次第だから証明して見せろと挑発する。
容疑者として逮捕されたフォルカーは敢て自らが狙撃犯であると自白し、それでも次の被害者が出るはずだと訴える。実際、アモンが次の殺人を犯したためにフォルカーは釈放されるが、虚偽の自白は正義に反するとクラウディアに指摘され、アモンからは正義に敗れたのだと告げられる。アモンらによって法務大臣カフカ(Vitus Wieser)に引き合わされたフォルカーは法務大臣の職を譲られる。「報道の自由と無罪推定原則」の博士論文を提出し、弁護士資格まで有しているフォルカーは、アモンらに丸め込まれていく。
アモンは激しく敵対するフォルカーこそ味方にできる可能性があると踏んでいた。だから懐に入れ込んだのである。フォルカーは言わば使徒パウロ、否、堕天使であろう。
アモンは、投資利益の最大化、家族の幸福の最大化という目的を最優先する。それは野生動物の行動原理とパラレルである。アモンが、ベガとココの誕生日パンティーでライオンのフェイスペインティングをするのは、その行動原理を暗示する。シュンペーター賞の授賞式では、来場者の1人がアモンを薬中か気違いかと評するが、それは野性が人間性と相容れないことを示唆するのだろう。
しかし、アモン以外の人々の行動原理はどうであろうか? アイロスを別として、アモンを放任する人々は人間性があると言えるのか? 本作の主題は、冒頭でパウラが提示している通り、反則で非難されるべきは反則した人なのか、それとも反則について見て見ぬふりをした人なのか、である。撃ち殺される犠牲者が続出するうち、人は感覚を鈍磨させてしまう。
アモンを尊敬するパウラの独白が随所に挿入される。その結果、ラテン語の直説法・能動態・完了で1人称単数の動詞を並べた"Veni Vidi Vici"の「私」とはパウラであることが暗示される。
パウラは継母ヴィクトリアを正義や誠実の体現者として捉える。正義はどのような立場とも相容れる相対的な価値であることが暗示される。
アモンの血を引くパウラは、映画『ノーカントリー(No Country for Old Men)』(2007)のシガーのように自らの行動原理に忠実であり、アモンの後継者として実力を発揮することは疑いない。友人のシルヴェスター・ザレス――パウラと実母がいないという共通点がある――が仮に父カール・ザレスの会社を継いでも、哲学などを学んでいるシルヴェスターに企業経営は無理だと看破するのである。
果たして、パウラとフォルカのどちらが恐ろしい存在と言えるだろうか。
アモンは愛する家族のために金に糸目を付けない。愛情に溢れる富豪一家の団らんは、簡単に撃ち殺される人々と強いコントラストを生む。クラシック音楽と、耳障りなコーラスとがその対照を増幅させ、作品に不穏な雰囲気を与えるのに効果を上げている。ビル・ヴィオラ(Bill Viola)の映像作品のような、冒頭のポロのシーンのスローモーションも印象に残る。
自己本位の両親の元に育った子供たちがどのような姿になるかを描いて印象的な作品に、映画『満ち足りた家族(보통의 가족)』(2023)(原作はオランダの作家ヘルマン・コッホ(Herman Koch)の小説『冷たい晩餐(Het Diner)』)がある。
人を標的にした狩りを楽しむシーンが登場する作品に映画『ハウス・ジャック・ビルト(The House That Jack Built)』(2018)がある。本作よりも刺激が強い。