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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 宮山香和個展『幽かな拍動』

展覧会『宮山香和「幽かな拍動」』を鑑賞しての備忘録
KATSUYA SUSUKI GALLERYにて、2025年5月31日~6月15日。

精緻な写実的描写に敢てコンピューターで描画したようなイメージや、セラミックの貼り付けによって、イメージの平板さと絵画の物質性とを強調した作品で構成される、宮山香和の個展。

《餞》(380mm×455mm)は古い洋館の屋根裏部の窓を描いた作品。緑青の浮いた銅版の瓦屋根の中にアーチ状の窓が2つ並ぶ。その窓には庭の花々とそれを眺める人物の姿が映り込んでいる。並んだ瓦、窓の外に弧状に並ぶ白い鉄製の手摺などが窓に映る像とともにイメージの増幅を暗示する。
《鏡写し》(455mm×333mm)は、洋館の暖炉とマントルピースの花瓶、壁に掛けられた円鏡に映る女性の姿を表わした作品。鏡像は、2つ並ぶ同じ花器、左右のラッセルで縛られたカーテン、円鏡の影により「うつる」イメージが増幅される。
《By your side》(606mm×500mm)は、熱帯植物の繁茂する水辺の白い砂の上に佇む白馬を、紫色の布と網入りガラス越しに表わした作品。砂地をセラミックで表わして立体感を与えつつ、対照的に画面全面を覆う斜め格子が窓ガラスという平面に――ちょうど天球のように――収斂させる。絵画のイリュージョンが浮き彫りにされる。
《The World》(1167mm×803mm)は、植物のデザインを施した鉄柵、花束を持つドレス姿の女性を表わす陶製人形、扇状に広がる観葉植物、レトロな壁面タイルが部分的に施された配管の剥き出しの壁、出窓などが表わされる。建物の内外、生物と無生物、立体と平面といった対照的な関係が1つの画面に収められることで、ディスプレイ、映像、平面を通じた世界認識を表わすものと言える。

《Lagrange Point》(606mm×803mm)は、青や紫、赤などの光が拡がる宇宙を全面に、右上に地球、下部に天体を表わし、矢印にも見える家の形の記号と眠るクマのぬいぐるみとを中央に描いた作品。2つの天体から受ける重力と遠心力の釣り合いが取れている位置を表わす「ラグランジュ点(Lagrange point)」という題名から、下部の天体は月と思しい。彼方から連綿と続く五線譜がクマのぬいぐるみをかすめて地球の方へと流れていく。

 古来、天空に固定された恒星の愛大を動き回る惑星は、天のメッセージを運ぶものと考えられていた。惑星たちは、動きながら何かを伝えようとしているに違いない。それを読み解くことが、天に通じること、すなわち天文学の使命と考えられていた。その惑星運動を解明するために生まれたのが、惑星音階である。各々の惑星は運動しながら固有の音を発している。音程を知れば、惑星の運行も、他の惑星との距離も把握できるという考えだ。惑星音階は、天球の音楽を理論武装するためのもの。惑星間の距離を音程に置き換えることは、まだひとつの惑星にひとつの音を対応させるという単純なシステムだったが、時代を経るにしたがって複雑さを増し、観測結果による惑星間の距離や運動の原理なども組み入れられて、より精緻なメカニズムとなっていく。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016/p.49)

天体の運動による宇宙の調和を象徴するのが音楽である。そして、人間の理性と身体とを結合するのもまた調和=音楽と考えられた。

 古代ギリシャでは、人体とはもうひとつの宇宙であると考えられていた。マクロコスモスとしての宇宙と、ミクロコスモスとしていの人体である。ヒトの魂にはもうひとつの宇宙(ミクロコスモス)があって、それが外界に果てしなく広がる宇宙(マクロコスモス)と対応している。つまり、人体と宇宙はつながっている。人体の音楽は、宇宙の音楽のいわば縮図である。だからこそ、宇宙の音楽は、人間の精神や肉体に切実な意味を持つと考えられたのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016/p.43)

《Lagrange Point》は宇宙(マクロコスモス)と人体(ミクロコスモス)とが調和=音楽により等しく捉えられることを表わすのだ。

《幾星霜》(318mm×410mm)は、仄暗い水中で白く浮かび上がるサンゴと、白いドットで表わした球体が3つ、左手前から奥へ向けて移動するように配されたイメージ。サンゴという生物とミラーボールのような惑星との相似にマクロコスモスとミクロコスモスとの照応を見出せる。

表題作《幽かな拍動》(1167mm×1167mm)は、タイルで縁取られた黄色い花の写真を表わした色取り取りの鉱物的な壁のような部分と、顔のある太陽のイメージを取り付けた文字のような記号を散らした部分、さらに両者に跨がって炸裂するペールオレンジの描線とで構成される。花の写真による写実的なイメージ、写真の縁を飾る実物のタイルや太陽の陶板、それらイメージと物質とを跨ぎ越すコンピューター・グラフィックのようなイメージ。この境界を跨ぎ越すイメージは腸をモティーフにしているという。何故か。腸管の内壁は対外であり、腸は身体の内部に外部を持ち込む装置だからであろう。作家は、内部と外部を融通無碍に往き来してみせるのだ。作家にとって、腸とは恰もワームホールのようなものである。幽かな拍動の響く身体に働く物理法則は、天体をも支配する。作家は、そのアナロジーを介し、身体=ミクロコスモスから宇宙=マクロコスモスへと鑑賞者を連れ出すのである。