展覧会『水上愛美「Dear All Our Yesterdays」』を鑑賞しての備忘録
KOSAKU KANECHIKA(京橋)にて、2025年5月10日~6月21日。
窓・通路などが入り組むダンジョンのような世界を舞台として、人物などのモティーフが錯綜する、砂壁のような支持体の絵画で構成される、水上愛美の個展。
展示作品中最大画面の《Lost in thought on Illusion Wednesday》(1950mm×2632mm)には、階段と2つの窓のある空間にいる2人の人物が描かれる。中央右側に向かって手前から緩やかに上がっていく階段が伸びる。奥にはアーチ状の出入り口が見える。階段の右手には附近には置くタッセルで纏められたカーテンが左右にあり、ピンク色の空が拡がっている。対照的に、画面左端の窓の外は夜である。左手前に小さな円卓があり、1人は椅子に坐り顔を覆っている。1人は起ち上がり、手にした、2匹の蛇が螺旋状に巻き付いた杖(カドゥケスの杖)を見詰めている。彼の足元には竜がのた打つ。画面の中心にあるのは、ヘルメスのアトリビュートであるカドゥケスの杖である。
(略)蛇は賢明さのシンボルでもあり、自然の治癒力を表すものとして治療の神アスクレピオスが持つ杖にも蛇が絡みつく。カドゥケスの杖でも医学はもちろんのこと、ヘルメスの属性である学問や商業、旅、さらには権威的な力や生命力のシンボルともなっており、「万能の杖」と呼んで差し支えない。
本来は蛇ではなく、日本の木の枝が絡む形状だったとされる。それはすなわち水脈や鉱脈を探す際に使われていた、細長い逆V字の枝から成る占い棒に起源があると考えられている。偶然かもしれないが、カドゥケスの杖が早くから錬金術のシンボルのひとつとなったことを思えば、それが金の鉱床を探すための用具に由来する点は興味深い。
(略)ヘルメス/メルクリウスは伝令係として天空を素早く駆ける点で「水星」と結び付けられた。一方、諸金属のなかで唯一「液体の状態にある金属」として早くから知られていた水銀は、銀色をしていることで「水銀」と名付けられた(ギリシャ語のhydrargyrum[水銀]もhydor[水]とargyros[銀]から成る)。完全に静止した状態の他の金属と異なり、液体として容易に動き、表面張力が極度に低いため少量では球状にまとまって転がりやすく、また気化も早いといった性質から、水銀は「クイックシルバー」とも呼ばれ、やはりもっとも速く飛び回る神であるヘルメス/メルクリウスと結びつけられた(メルクリウス神の英語表記であるmercuryは、水星と水銀をも意味する語である)。
加えて、アスクレピオスの杖では1匹だった蛇が、カドゥケスの杖では2匹に増え、整然とした左右対称の二重螺旋を描いてる点も重要である。というのも、それらは常に反対を向いて、おたがい逆の曲線を描き合う関係にあり、すなわち前に述べた「対概念」のシンボルともなっているからだ。それらはすなわち、すでに述べたように太陽と月(陽と陰)、男性性と女性性といった対概念のペアである。(池上英洋『錬金術の歴史 秘めたるわざの思想と図像』創元社/2023/p.47-49)
タイトルに水曜日(Wednesday/Mercredi)が冠されているのはヘルメス/メルクリウスとの連関を示すためであった。なおかつそのアトリビュートであるカドゥケスの杖によって、錬金術との繋がりが示される。
錬金術とは、もともとは金にあらざる物質を用いて金を生成する作業のことで、人類は古よりこの夢を追い続けてきた。それはエジプトの冶金術に始まり、キリスト教世界となった後のヨーロッパでも、姿を少しずつ変えながら存続した。しかし所詮は不可能な作業のこと、かつてひとりの賢者だけが成功したとの伝説が生まれ、その扇を記した数々の指導者は、意図的にわかりにくくするため摩訶不思議な図像であふれる結果となった。技術的なアプローチだったはずの錬金術は、ルネサンスの到来とともに求道的なアプロートの比重を大幅に増していく。そこには、古代ギリシャの両性具有体の神話に由来する「完全体」の思想があった。こうして近世における錬金術は、仏教の解脱にも似たグノーシス主義的理想を掲げ、メディチ家のネオ・プラトニズムの文化サロンを中心に隆盛を迎えた。
しかし、錬金術は近代化学の母体ともなったが、化学が分離していくにつれ、残された部分の錬金術はおのずと寓意に満ちた求道的なものにならざるを得ず、徐々に神秘主義的なオカルト学となったみなされるようになった(池上英洋『錬金術の歴史 秘めたるわざの思想と図像』創元社/2023/p.274-275)
《Lost in thought on Illusion Wednesday》の2つの窓は太陽と月のメタファーである。同様に、相対する2人の人物が一体化するイメージが幻視されるように画面中央に配された《I am you and you are me Ⅴ》(477mm×402mm)や、2つの円が重なり合う図像を4つ曼荼羅のように配した《double》(348mm×262mm)は、陽と陰との融和を暗示しよう。また、《Lost in thought on Illusion Wednesday》におけるカドゥケスの杖を持つ人物の足元でくねる竜は、永遠と循環の象徴であるウロボロスを連想させる。但し、竜が自らの尾に食らいついていない姿は、作品において、未だ完結性を有していないことに留意すべきである。
《on the road》(857mm×622mm)には、闊歩する人物に覆い被さるような巨大な猫が画面一杯に描かれる。人物は右端から画面手前に向かって歩き去ろう賭している。彼は右手に巨大な猫を目にする。猫の顔には大きな目や口に加え、眉まである。その背後には黄緑色の光を帯びた手が覗く。人物は彷徨している(on the road)。人のような猫は変身を象徴する。変身、変化とはまた過程である。作品は、錬金術的求道の寓意としてあり、制作の過程(work in progress)にある。本作や個々の作品が未完成というより、作品は常に完全体の理想(「イデア」)を手にしようとする試みと捉えるべきであろう。その象徴が、黄緑色に輝く手なのだ。