映画『秘顔 ひがん』を鑑賞しての備忘録
2024年製作の韓国映画。
115分。
監督は、キム・デウ(김대우)。
原作は、映画『ヒドゥン・フェイス(La cara oculta)』(2011)。
脚本は、ノ・ドク(노덕)とホン・ウンミ(홍은미)。
撮影は、キム・ドンヨン(김동영)。
照明は、キム・ヒョンヨン(김형용)。
音声は、ハン・ミョンウァン(한명환)。
美術は、パク・イルヒョン(박일현)。
衣装は、チェ・ウィヨン(최의영)。
編集は、キム・サンミン(김선민)。
音楽は、イ・ジェジン(이재진)。
原題は、"히든 페이스"。
豪邸のリヴィング・ルーム。ソンジン(송승헌)が、妻のシン・スヨン(조여정)がこの部屋で撮影したヴィデオ・メッセージを、テーブル上のラップトップで視聴する。私よ、ソンジン。怖がらせちゃったかしら? 直接言おうと思ったんだけど、顔を合わせると挫けちゃいそうだったから。ベルリンに行くわ。私たちの関係に確信が持てなくなったの。あなたのことが分からない。それでイライラしてる。何もかも疑わしいし不安なの。苦しいの。結局、結婚には向いてなかったんだと思う。正しい選択だったとしても。私が変わってるのよ。あなたのせいじゃないわ。私の責任。だから出て行くことにしたの。あなたがいてくれて幸せだった。だからあなたも幸せになってね。じゃあね。ラップトップを閉じ、溜息をつくソンジン。部屋を立ち去る。
ステージで楽団員が音合わせをしている。指揮者のソンジンが指揮棒を手にして、第1楽章の途中から始める。事務長(박성근)が練習の様子を眺めている。
練習を終えたソンジンがロビーで事務長に呼び止められる。お疲れのようですね。そうですか? 話さなくてはならないことがあります。チェリストの件です。空席のまま練習できないでしょう。調和を欠いていますよ。皆さん、気付いていないフリをしてますけどね。スヨンさんが戻って来るのを待つべきだとは思いますが、噂になっていますので。できる限り早く対処します。
楽団長室。ヘヨン(박지영)がソンジンに珈琲を勧める。ゲイシャよ。味わってみて。もう12日になるのね。そうです。娘は間違いなくベルリンには行ってないわ。チェロを置いて行きました。服もです。大丈夫、すぐ戻って来るわ。戯言を言ってるのよ。楽団長の娘だからって何をしてもいいと思ってるのね。申し訳ありません。あなたが謝ることじゃないでしょ。今頃ホテルで寛いでいるんじゃないかしら。甘やかした私の責任よ。それか躾けたけど、結局私同様に育ったのね。いずれにせよ私のせいだわ。私の責任です。そう言えば、今日チェリストが面接を受けに来るわ。あなたの部屋で待っているわ。娘は自分の穴を埋める演奏家に連絡を取ったのよ。責任感があるわね。もう数日は様子を見てはどうでしょうか? その必要がある? 彼女が戻って来たときに自分の居場所がなければ傷つくかもしれません。あなたは事務長にもう待てないって言ったそうじゃない。代わりの楽団員が必要だって。調和がとれてないって。あなたの言うとおりだわ、あなたは指揮者なんだから。でも、私に直接言うべきよ。他の人に言わせるんじゃなくて。面接に行きなさい。
ソンジンの部屋では、キム・ミジュ(박지현)が面接のために待っていた。ソンジンが履歴書を手に取る。スヨンの後輩だとか。学校は同じじゃないですね。私もパク・ヒョンソン先生に指導を受けたんです。私が入試に向けた準備をしているときにスヨンさんが助手でした。楽団に欠員が生じたから応募するよう声をかけてもらいました。スヨンは他に何か言っていましたか? 突然連絡があったので驚きましたが。来るべきではなかったですか? いいえ。演奏を聴きましょう。実は楽器に問題があって。可能なら録音を聞いて頂きたいんですが。そうですか。ソンジンはプレイヤーに受け取ったUSBを挿し込む。シューベルト、アルペジオーネ・ソナタ。これといった考えも無くこの曲に? どういう意味ですか? このような単純な作品で応募するのは考え難いということです。私はシューベルトが一番好きです。シューベルトは一番悲しい音楽だからです。悲しい音楽を聴くと、私自身の悲しみが音楽の蔭に退くんです。だから私はシューベルトが好きです。履歴書は処分して下さい。USBはデータを消去するか捨てて下さい。お会いできて光栄でした。ミジュが立ち去る。ソンジンは溜息をつく。部屋からブラインド越しに外を眺めると、駐車場で小さな車にチェロを積むミジュが見えた。
ソンジンは改めてミジュのアルペジオーネ・ソナタを聴く。私はシューベルトが一番好きです。シューベルトは一番悲しい音楽だからです。彼女の言葉が蘇る。ソンジンはミジュのSNSをチェックした。
ミジュは暗い部屋で煙草を吸う。部屋を出ると、階段にソンジンの姿があった。なぜここへ? 履歴書に目を通しました。突然すいません。昼間は大変失礼な態度で、八つ当たりをしてしまいました。謝りに来ました。申し訳なかった。分かりました。素敵な演奏でした。オーケストラに加わって下さい。本当ですか? ソンジンは楽譜を渡す。シューベルトですね。シューベルトです。公演会で演奏する作品です。練習して来て下さい。実は、私もシューベルトが好きで、理由はあなたと同じです。
ミジュが加わり、オーケストラの練習が行われる。
指揮者のソンジン(송승헌)は、所属するオーケストラのチェリストであるシン・スヨン(조여정)と結婚し、スヨンの母で楽団長のヘヨン(박지영)の支援で手に入れた新居に移って間もない。ある日帰宅すると、自分に結婚は無理だったと詫びベルリンに発つとスヨンがヴィデオメッセージを残していた。動揺するソンジンにヘヨンは心配ないと、チェリストの欠員の補充を促される。スヨンの紹介を受けた後輩キム・ミジュ(박지현)を面接すると、自らの悲しみが曲の後景に退く悲しいシューベルトが好きだと言った。奇しくもソンジンがシューベルトを愛好する理由と一致していた。事務長(박성근)はミジュの演奏に不満を示すがソンジンは努力家のミジュの伸び代に期待し、ヘヨンも娘婿の意見に同調する。飲食店の息子で華美な暮らしに馴染めずにいたソンジンは、両親を交通事故で亡くし倹しい暮らしを送ってきたミジュに惹かれていく。
(以下では、全篇について言及する。鑑賞予定者には鑑賞後に読まれることをお勧めする。)
ソンジンはオーケストラの指揮者をし、所属楽団を率いるヘヨンの娘スヨンと豪奢な暮らしをしている。だが巷の飲食店の出身であるソンジンにとって華美な暮らしは性に合わない。他方、ヘヨンは、オーケストラが見栄えする指揮者としてソンジンを買っている。ジャコウネコの糞から採取される高級珈琲豆コピ・ルアクを引き合いに訴えるように、重要なのはパッケージで、目に見えるものこそが本質だというのがヘヨンの信念なのだ。だから楽団はヘヨン、スヨン、事務長の三者で運営され、ソンジンは蚊帳の外である。もっとも、ソンジンが不満なのは、自分がお飾りであることではなく、そのことがあからさまになることである。
ヘヨンが認めるとおり、娘のスヨンはよく似た考えの持ち主である。だからスヨンは同性愛の相手であるミジュとの関係を維持したまま、見た目の良い指揮者を夫としたのである。
スヨンの突然の結婚は、恩師パク・ヒョンソンの旧邸を改装してスヨンとの同棲を始めようとしていたミジュにとって青天の霹靂であった。ミジュはソンジンを寝取ることでスヨンに復讐を図るのである。
新居は仮面夫婦を、その隠し部屋はスヨンとミジュの秘められた関係を象徴する。レズビアンとしての顔が1つの秘密の顔(hiden face)である(因みに原題"히든 페이스"は英語の音訳である)。隠し部屋の足枷はスヨンに支配されたいミジュの性的嗜好を表わす。そして、自ら足枷をはめるミジュは、スヨンが自らを支配するよう仕向けるのである。危うい駆け引きに出ることこそ、立場の弱いミジュの生存戦略だ。だからミジュは、スヨンの生殺与奪の権を握ると、裏切りの共犯者であるソンジンにスヨンの処置を委ねる。ソンジンに選択権はあるが、ミジュの想定する選択しか成し得ない。そもそもソンジンがミジュと関係を持ったのも、ミジュがスヨンに復讐を果たすための道具としてであった。スヨンは選択させつつ思い通りに事を進めるのである。蔭を感じさせる表情に微かな笑みを浮かべるばかりのミジュが、いつしかソンジンの逞しい体軀に跨がり激しく腰を使う姿は、ミジュを表わすのに効果的だ。スヨンはそんなミジュを養わざるを得なくなるだろう。
パク・ヒョンソンの父親は日本統治時代に日本軍、しかも731部隊に医療担当者として加わっていた。隠し部屋は秘められた歴史の暗部を象徴してもいる。これがもう1つの秘密の顔である。
支配・被支配、歴史の暗部という点で、映画『湖の女たち』(2024)と通底する作品である。韓国映画なら、『お嬢さん(아가씨)』(2016)もお薦めである。