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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 湯浅万貴子個展『円ら脈拍』

展覧会『湯浅万貴子「円ら脈拍」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2025年6月6日~18日。

アルミ箔を貼り、一部に黒箔を配した画面に、女性の身体を点描で陰影を付けて表わした絵画で構成される絵画「Gestalt」シリーズなどで構成される、湯浅万貴子の個展。

《Gestalt(円環なる問)》(1600mm×1820mm)は、アルミ箔を貼った画面の一部に黒箔を配し、画面中央に女性の身体を表わした作品。箔を貼る背景に対し、身体には無数の点により陰影・凹凸が表現される。右腕を挙げて両脚を伸ばす姿、真横から捉えた胸部、右腕を床に突きつつ胸を反らしたトルソなどが中央の縦の線を中心に対称的に描かれる。鏡像のようだが完全な左右対称ではない。そのズレは画面中央、画面下端などに配される矩形状の黒箔が非対称であることと共鳴する。頭部が表わされないこと、不自然な姿勢、裸体であることが、イメージを構築するための道具として女性の身体が利用されている状況を浮かび上がらせ、なおかつアルミ箔の銀と黒箔の闇とが実験室のような無機質な空間を連想させるために不穏な雰囲気を醸し出す。例えば、シリアルキラーのジャックが自らが屠った遺体で建造物を構築する映画『ハウス・ジャック・ビルト(The House That Jack Built)』(2018)の世界だ。しかし、本作で注目すべきは、頭部が無いことである。ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)のアセファル(Acéphale)ではないか。裸体の女性たちが形作る空洞が性器であることは見易く、アセファル(=無頭)は性愛による自己喪失の象徴と解されるのだ。また、色彩感覚こそ異なるが、鏡像が暗示する繰り返し、そして身体の陰影を表現するために執拗に打たれた点は、酩酊状態の惹起を意図するサイケデリックに通じる。とりわけ、画面右から左に向かい、跳ね、駆け回る女性の身体を真横から捉えた《Gestalt(踊っているあいだも目を向けて)》(1303mm×1620mm)は、箔と型紙による繰り返しを組み込んだ光琳の《燕子花図屏風》を連想させる。サイケデリックには禅など東洋思想への関心があり、円環的時間観念に行き着く。「円環なる問」を共有するのである。《Gestalt(哀愍)》(1700mm×3000mm)においては、胸像的に配された横たわる女性の身体によりやはり画面中央に穴が穿たれる。画題の「哀愍」に神仏の存在が暗示されるように、やはり東洋思想=円環的時間観念に帰着するのである。