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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 青木野枝個展『ふりそそぐものたち 2025』

展覧会『青木野枝「ふりそそぐものたち 2025」』を鑑賞しての備忘録
ANOMALYにて、2025年5月31日~6月28日。

3mの支柱4本で組んだ塔状の構造物の中に大小の鉄の輪を組み合わせた球体を吊した「ふりそそぐもの」シリーズなど、工業用鉄板から溶断した輪や棒を組み合わせた彫刻による、青木野枝の個展。

「ふりそそぐもの 2025」シリーズは、工業用鉄板から溶断した棒と輪とで構成される。約3mの棒4本を、底面がほぼ正方形になるように1m強での棒で下部と頂部とを固定し、かつ頂部に2本の棒を十字に組み、十字の交点附近からワイヤーで大小の鉄の輪を溶接して形成した球体を吊した作品。球の直径は正方形の1辺よりも小さく、鉄の枠の中に収まる。《ふりそそぐもの 2025 Ⅱ~Ⅹ》は1つの空間に並べられており、吊された球体の位置は個々で微妙に異なる。明度を抑えた照明により、また直方体の柱との相似により、コンクリート剥き出しの空間に馴染む。鉄の棒はやや撓み、切断面には凹凸やバリが残る。その歪みや震えはドローイングやカリグラフィーに通じ、有機的なイメージを喚起させる。無機物の幾何学的形態は生命感に溢れているのである。大小の輪を繋ぐことで生まれた球体もまた卵、気泡、水滴など生命に纏わるイメージを呼び起こす。塔ないし櫓のような立つ構造物は直立する人間のメタファーとなり得る。構造物が人間なら球体は魂ないし生命となる。複数の存在の間に連綿と受け継がれていくことになる。
会場は仮設の壁によって2つに仕切られており、《ふりそそぐもの 2025 Ⅰ》はもう1方の空間に設置されている。この作品には赤いガラスを嵌めた輪が球面に複数組み込まれている。疵付いた皮膚から流れ、瘡蓋となる血のようだ。その血(出血)のイメージは、作品が生まれる際の溶断における、鉄の赤熱を喚起する。切れば血が出る。やはり生命だ。
ところで、作品名の「ふりそそぐ」とは何か。鉄球が吊されているのは降り注いでいる状態だろうか。だが作家の狙いは、鉄の構造体という制作の結果を見せることには尽きない。敢て撓みやバリを残すのは、作品からその生成過程のダイナミズムを想起させるために他ならない。溶断の際に飛び散る火花、それこそ「ふりそそぐ」ではないか。あるいは、工業用鉄板から大小の輪を溶断する際、ケガキ線による同心円が鉄板に整然と描かれる。それは降り頻る雨による水紋だ。「ふりそそ」いだ結果こそ輪の連なりなのである。
水面は水の惑星・地球である。また、鉄板は3分の1を鉄が占める地球のメタファーたり得る。そして、溶断の際の燃焼とは酸素との結び付きであり、人間など生命の呼吸に通じる。地球の一部が人間として姿を現わす。換言すれば、地球のメタモルフォーゼとしての人間である。

 わたしたちが生まれるのは、わたしたちがみな、その魂と身体とにおいて、世界の一部にすぎないからだ。生まれることはこの点に集約される。すなわち、わたしたちはメタモルフォーゼ、つまり世界の肉の微小な部分の微々たる変容以外の何者でもない。しかし、わたしたちが自分の身体に受肉する母の身体の一部は――一見それよりも小さい父の一部と同じく――終わりなく連鎖する変形と受肉の一段階にすぎない。わたしたちは、今のわたしたちになる以前には両親の身体の一部であったし、わたしたちの世代が生まれる以前の両親の身体の一部であった。わたしたちはアンセストラル(先祖以前)の過去を、つまり、わたしたっち各自の身体を地球史――惑星や、その土壌や、その物質の歴史――のごく限られているが果てしない一部分となすような過去をもつのである。
 すべての生きものはある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である。この同じ生とは惑星を生気づける生であり、惑星もまた生まれ、既存のコール(身体=単体)――太陽――から逃れ、45億年前に物質的なメタモルフォーゼによって生み出された。わたしたちはみなその小片であり、閃光である。先行する数えきれぬ存在のなかで生がなしたこととは別の仕方で生きようとする、天体的物質でありエネルギーである。しかしながら、この共通の起源――より適切に言えば、わたしたちが地球の肉と太陽の光、つまり「わたしう」と言う新しい仕方を再発明する肉と光であるということ――は、わたしたちにただ1つの同一性を強いるわけではない。反対に、より深くて親密な親縁性(わたしたちは地球と太陽であり、それらの身体、生である)のゆえにこそ、わたしたちは絶えず自分の本性と同一性を否認するよう定められており、それらを新たなものへと手を加えるよう強いられている。差異はけっして自然ではなく、運命と責務である。わたしたちは互いに異なったものになる義務を、自分をメタモルフォーゼする義務を負っているのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p.21-22)

《amorphous Ⅰ~Ⅵ》は、いずれも1.7m~2.0mの高さで、鉄の棒の歪みが大きく、宙吊りになっている球体が小さいなどの点を除けば、「ふりそそぐもの 2025」シリーズに類似する。高さに人の背丈が意識されているのは疑いない。そして、一列に並べられることで、吊された球体が表象する魂=生が受け継がれていく様が表わされるとともに、形の差異、変容が浮かび上がる。「形(morphé)」の「無い(a)」、「無定型(amorphous)」をタイトルに冠することからも、メタモルフォーゼの運命と責務とを象徴する作品と言えまいか。