展覧会『王潔茹「こころの庭」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年6月23日~28日。
茎、葉、花、種・胞子などの植物、イチゴやスイカといった果物、身体(人物)や眼球、心臓、歯・舌などの器官などが、流れたり降ったりという水のイメージで纏められた、生命の循環を表現する曼荼羅的絵画で構成される、王潔茹(王洁茹/Wang Jieru)の個展。
最初に目に入る作品は、《囚われる子供》(727mm×910mm)。銀色の箔の床と茶系の色味の壁の空間に黒い卓と椅子とが置かれ、スプーンでサクランボを掬って大きく開けた口に運ぶ子供が坐る。空間は椅子の後ろに続いていて、閉鎖的だが広く感じられる。頭部に巨大なサクランボの実が並ぶのは、青と赤の潰れた円をいくつも重ねるように表わした目と相俟って、食べること自体に執着する姿が表される。子供の背後には別の大きな口が開き、頭部のさくらんぼの実を食べようとしている。欲求の充足は本人の意思ではなく、親ら大人の意思に基づくことが示される。
《見ているよ》(300mm×300mm)には、草叢にやや身体を前に傾いで坐る裸の少女が表される。まず目を惹くのが、イチゴの実のような頭部である。赤い肌に黒い点が並び、中央の縦の裂け目が目のように配される。緑色の髪の頭部には心臓に接続する大動脈のような管が生え、種のように水色の液体を飛ばしている。彼女の下腹部から伸びる茎の先には花が咲き、赤い種を飛ばす。周囲には咲く花々は光を発し、彼女の肌が照らされる。少女の傍には目玉が浮かび、彼女に視線を向けている。何者の目かは判然としない。少女が大人へと移り変る姿を見届けているようだ。だが、見ているのは、少女の方である。顔に1つ穿たれた曖昧な目が、鑑賞者を見詰めている。因みに、イチゴと心臓は作家にとって重要なモティーフであり、イチゴと心臓がモティーフとなった《いちごの楽園》(530mm×455mm)や、大きな掌で心臓を包む《海の心臓》(530mm×455mm)などにも表わされる。
《瞑想》(727mm×600mm)の中央には、前方に手を伸ばし掌を立てた人物の上半身が横向きに表わされる。赤い頭部(厳密には、オレンジ、紫などの円が重なる)はやや前に倒れ、オレンジの腕からは湯気のようなものが立ち上る。赤と黒との流れが人物の下半身の辺りを流れていく。画面左奥から右手前に向かう。その流れは火砕流なのか、黒々とした煙をもうもうと噴き上げている。画面左上では金色の雲が金銀の雨を降らせ、画面右下には池が拡がる。画面左下には、毛糸玉のような頭部に青いマントという出で立ちのてるてる坊主のような姿があり、そのマントの中からは赤と金の帯、夜空に輝く星々のようなイメージが流れ出している。四元素や五行といった、世界の変化と循環とを表わす作品と解される。
《永き夢の果て》(1300mm×1620mm)は、蛇行する川とその上に架かる虹との間を飛ぶように潜り抜ける人物を表わした作品。奥には湖のような水源があるしらく、そこから川が大きく蛇行しながら画面左下へ流れていき、この世界の外部へと落水する。川は同時に道路のようでもあり、車のような乗り物が走る。川の中間部分に七色のアーチが架かり、その間を両腕を左右に拡げた人物が飛び抜けていく。頭部はリンゴの皮剥きのように解れていき、その内部からは芽が伸びる。首飾りのような花弁が顔の周囲を飾り、手の甲からは花が茎を伸ばす。足の先からは炎が吹き出し、推進力を得ている。川の周囲も様々なものが生えている。イチゴと心臓も複数見られる。目が浮かび、星が輝き、血が滴る。人間、植物、機械が渾然と一体化した世界は、現実を超える(世界の外部へ向かう)ためのロケット発射基地なのだ。
《絶え間ない流れ》(1620mm×1940mm)は、巨大な食虫植物に囲まれて、流れに浮かぶ人物を描いた作品。両腕を拡げて仰向けになる人物の顔は、それ自体食虫植物のような棘を縁に並べ、中から複数の植物が伸びている。頭部には大動脈のようなものが接着している。胸や掌にはカットしたスイカがあり、花が生えている。下半身は草のような束である。仰向けに流される姿は、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)の《オフィーリア(Ophelia)》を連想させる。もっとも、死を生の否定として表わす《オフィーリア》に対し、口を開ける巨大な食虫植物、蓮の葉から生える土筆のような植物、あるいは胞子のようなものが生える混沌として猥雑なエネルギーに満ちた世界を表わす本作は、死と生とが同じものであることを訴えるようだ。
《過ぎたる夢》の横長の画面(217mm×770mm)には、複数の流れの注ぎ込む合流点が右上の位置に表わされている。4つの砂州や岸の間を金色の水が縫う。一番大きく描かれた流れには、無数の舟が描かれる。魂を載せる舟はブラックホールのような渦に呑み込まれていくのだろう。合流点はワームホールとして機能し、別の世界へ転生させるのではないか。フルーツ唐草、フルーツ曼荼羅を通り抜けた先に出会う本作は、鑑賞者を振り出しに戻らせ、生命のとこしえの循環を体感させるのである。