可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『パブリック・ファミリー』

展覧会『都美セレクション グループ展 2025「パブリック・ファミリー」』を鑑賞しての備忘録
東京都美術館〔ギャラリーC〕にて、2025年6月10日~7月2日。

地方の運動会における性的役割分担を戯画化したさめしまことえ、戦争に翻弄された人々の営みを追廻住宅(仙台市青葉区)にリサーチした佐々瞬、住居のアフォーダンスを切り口に近代の家族観を紹介する工藤春香、配慮を名目に子連れや・障害者の公共空間からの排除について問う坂本夏海、再生産機能に囚われた家族とは異なる家庭のあり方を提示する金川晋吾の参加する、家族再考の試み。企画・キュレーションは、西田祥子と工藤春香。

さめしまことえ《にぎい、こん!》は、運動会の食事を早朝に起きて準備する母親の姿を描いた絵画と、新聞紙を丸め黒いガムテープで作った「おにぎり」による玉入れ競技のインスタレーションから成る。「にぎい、こん!」とは、「握り込む」を表わす鹿児島の方言に基づく作家の造語である。絵画はいずれも正方形の画面を灰色に塗られ、赤や灰色の描線でおにぎりを握る母親の胸像がシンプルな描線で漫画のように表わされる。俯き、仰向き、たんたんとおにぎりを結ぶ母親たちは無表情である。おにぎり自体は描かれず、その不在が徒労感を際立たせる。22枚、すなわち「夫婦(22)」を連想させるが夫の姿はない。紅白の縞の柱の先に取り付けられた籠と、その下に散らばる新聞紙とガムテープによる「おにぎり」は、食事の準備が母親の競技であることが示される。

佐々瞬は、仙台市青葉区にかつて存在したコミュニティ「追廻住宅」を取り上げる。住宅営団により陸軍第二師団の練兵場に戦争被災者のための住宅が建設され、住宅営団解散後、住民は建物を買い取るとともに国から土地を賃借して生活していた。公園整備を進める仙台市と住民との交渉は難航し、2023年に最後の住民が退去するまでに77年間を要した。リヤカーの上には広瀬川沿いに存在した追廻住宅の模型が置かれ、近くには最後の住宅をふとんカバーに描いた《そこに暮らす人々は自らの歴史を記した》が、住宅の部材を組んだ台座に設置されている。住人たちの回想を紙にフロッタージュして「架空の石碑」の拓や、追廻住宅の関連資料も並ぶ。

工藤春香《わたしの・いる・ところ》は、角材を組んで卓袱台やテーブルの置かれた3つの空間を構成し、壁面には家族制度に纏わる出来事を記載した年表を、各空間にでは、長岡俊成・西尾佳織・野木青依・福田啓人それぞれの家族についてのエピソードの紹介(朗読の再生装置及びノート)とそれに纏わる陶製のオブジェが設置されている。建売住宅のシステムキッチンの高さが85cmであるのは女性の平均身長160cmに応じているように、社会には女性の役割を引き出すアフォーダンスが実装されている。女性や家庭を型に嵌めようとする社会の仕組みを炙り出すべく設えられた作品である。年表は1870年から現在までを網羅する。最初の空間には明治天皇の女官(側室)たちの肖像画も展示されている。4人の語る家族のエピソードと相俟って、家族や性的役割分担に対する枠組みが浮かび上がる。1962年には、いずれ家庭に入る女性たちによって優秀な学生の枠が狭められると文学教授が女禍論を主張していた。1960年の大学進学率は8.2%(女子2.5%)で、1965年に同12.8%(女子4.6%)である。文学部に女子学生が殺到してパニックになったのであろうか。旧弊に囚われた人々の姿は、そのまま鑑賞者自らもまた古い価値観に囚われていることを暗示する。他山の石とせねばなるまい。なお、近年の年表では、保育園の待機児童問題(2016)、こども家庭庁の設置(2023)、離婚後の共同親権制度導入(2024)、選択的夫婦別姓制度(2025)(国会閉会により継続審議となってしまった)が掲げられる。

坂本夏海《Singing Together in a Museum》は、1974年にモナリザ展で《モナリザ》に赤いスプレー塗料が噴射された「モナリザ・スプレー事件」に着想した作品。《モナリザ》の鑑賞を楽しみにしていた、片脚の不自由な米津知子は「乳幼児づれの方その他付添いを必要とする方は、待時間が長く、また階上の混雑が予想され、事実上観覧が困難と思われますので、ご来観をご遠慮ください」との方針が、公共空間から乳幼児のいる母親や身体障害者を排除するものだと、《モナリザ》を標的にした抗議活動を行った。ヨーロッパで環境活動家たちが絵画を汚損する抗議を行う50年も前の話だ。ガラスケースを汚損し、軽犯罪法違反で逮捕された米田は「わたしが身体障害者で、女であるために、我慢したり諦めたりしなければならないことが多すぎました。私はいつも、人間としての誇りに、泥がぬりたくられているように感じてきました。ぬりたくられた泥をどうしたら払いおとせるのかと考え続けてきました。モナリザ展の障害者・子供づれしめ出しに対する抗議は、その思いを行為にしたにすぎません。私の行為が仮に法の許す範囲を越えたものであろうと、私は自分に罪があるとは少しも思っておりません。そして、この国の憲法が全ての国民に平等と人権を保障するものである以上、私の行為はそれに対して従順であったと思います」と裁判で訴えた。合理的配慮の名の下に行われる行動制限が差別に他ならないことを主張したのである。作家は、米田の主張に呼応して、乳幼児を連れた母親と公共空間との関係性をテーマに作品を制作した。

金川晋吾《明るくていい部屋》は、斎藤玲児・百瀬文との共同生活を送る作家自らの日常を捉えた写真である。恋愛感情や性的関係を介在させたりさせなかったり、嗜好や性格の異なる個々人が、相互の結び付き方の程度により常に変化していく中、恰も神の見えざる手の働きにより均衡状態がとれるかのように成り立つ暮らしが明らかにされる。「家族」は固定観念に縛られ、それゆえに破綻している。川井雄仁が理想の家族像の破綻を主題に個展『神様、もう少しだけ』(2025)を開催したところだが、映画『チョコレートドーナツ(Any Day Now)』(2012)や映画『万引き家族』(2018)など、映画は新たな家族の形を描いてきた。だからこそ作家たちのように自分たちなりの生活の形を模索しながら生きていくことが必要になる。脱モノカルチャー化が、強靱な未来社会の礎になる。だがその流れに不安を抱く社会は、過去を無思慮に根拠無く理想化し「家族」の維持に汲々とするだろう。