展覧会『三栖賢太個展「Scenes」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年6月30日~7月5日。
建築物や街灯、仮設の標識や看板などで構成される半ば抽象化された景観を描いた作品10点(アクリル8点、油彩2点)で構成される、三栖賢太の個展。
キーヴィジュアルに採用されている油彩画《空模様》(1620mm×1303mm)は、目の粗い画布に、左手前から右手奥に延びる「とまれ」の路面標示のある車道と低木の植栽(?)間の側溝(コンクリート製の蓋で覆われている)に置かれた赤い三角コーンを描いた作品。道の途中で斜めに寸断されて青空が拡がり、もう1本の赤い三角コーンが覗くとともに、植栽の裏から伸びた黒く太いゴムホースがその空間に垂れ落ちている。この世界が切開され垣間見える世界をチューブ(tube)が接続している。新旧を問わず映像が並ぶオンラインのテレビ(tube)の感覚の表現ではないか。「とまれ」の表示が寸断されているのも、通時的な理解を拒否することを訴えるようだ。赤い三角コーンにも欠けた部分があり、その内部にはまた別の世界が拡がっているらしい。さらに画面右上は絵の具を塗り残し、粗い画布を露出させている。複数の世界、複数の時間が存在するのは、マルチタスクを求められる社会の似姿なのかもしれない。
もう1点の油彩作品《division》(500mm×606mm)には、薄く雲のかかる空を背に海に積み上げられた四脚の消波ブロックが描かれる。夕陽を浴びてオレンジ色に染まる消波ブロックは手前の藍色の海面に映える。角度によっては「人」の形に見える消波ブロックは、移民や難民の姿を象徴するのだろう。世界はチューブで繋がりつつ、否、繋がるからこそ、反作用として切断、分断の動きが生まれる。だが海も空も1つであり、全ては繋がる。因果応報である。断つ者はまた断たれるだろう。
作家は、《connect》(530mm×530mm)において、青空の下、壁に囲われた角地に設置された赤い三角コーン2本とそれを繋ぐコーンバーとを表わしている。左手前に画面から見切れるように1本、画面右隅にもう1本が立ち、その2本を黄と黒の縞模様のコーンバーが繋ぐ。そこに板が立て掛けられているが、恰も鏡のように空を映し、画面を斜めに2つの世界に断ち切る。但し、世界を断つのは鏡像、イメージであり、現実はコーンバーのように繋がっているのだ。
《scene 1》(803mm×1303mm)は、植栽(あるいは緑色に塗られた壁)と建物に囲まれた広場に照明の柱の列と5枚の折り畳み式の看板(1枚は倒れている)を配した作品。《scene 2》(803mm×1303mm)では校舎のような建物内にベンチや階段、折り畳み式の看板が配される。《scene 3》(652mm×652mm)にはピロティのある建物と倉庫のような建物の前に走る道にロープで繋がれた黄と黒の縞のポールを描く。《scene 4》(602mm×602mm)にはピロティのある建物と照明の柱が並ぶ。「scene」シリーズはイメージの抽象度が高く、恰もサンドボックスゲームの場面のようだ。風景が作家によるデザインであることが強調される。そのデザインは自然美の崇高を伝えるものでも、神仙の理想郷を伝えるものでもない。個人がモティーフを自由にコピペできる、ポストトゥルースの世界の似姿なのだ。
《reveal》(606mm×500mm)の地平線にまで続くのっぺりした空間には、堤防のような構造物、何か機材の入ったと思しき箱を取り付けた柱、折り畳み式の立て看板が配される。柱の影は途中で不思議な形で折れ曲がり、また画面外の柱の影と交差する。北脇昇の絵画に通じるが、本作の方がより無機質で抽象度が高い。目にする光景のうちディスプレイを介すものの比率が高まる現在、現実はコンピュータで描画されたイメージが多くを占めるようになっている。不自然な影は、目にする世界が恣意的に切り取られ、あるいは描き出されたものにすぎないことを示唆する。世界を構成している存在には何の根拠もないことを明らかにする(reveal)のが狙いなのだろう。