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芸術鑑賞の備忘録

映画『でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男』

映画『でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男』を鑑賞しての備忘録
2025年製作の日本映画。
129分。
監督は、三池崇史
原作は、福田ますみのノンフィクション『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』。
脚本は、森ハヤシ。
企画は、和佐野健一。
撮影は、山本英夫
照明は、小野晃。
録音は、中村淳。
美術は、坂本朗。
音響効果は、中村佳央。
編集は、相良直一郎。
音楽は、遠藤浩二

 

向井地方裁判所。大和紀夫(北村一輝)の率いる弁護団が列を組んでやって来る姿を待ち構えた報道陣が撮影する。続いて、被告の薮下誠一(綾野剛)に気付いた記者たちがカメラやマイクを一斉に向ける。一言お願いします! 警備員が誠一をガードし、裁判所に通す。
法廷。証言台に立った氷室律子(柴咲コウ)が宣誓書を読み上げる。宣誓、良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。
【氷室律子の証言】
2003年5月12日。強い雨の降る晩。氷室家の豪邸のインターホンが鳴る。時計は9時を廻っていた。氷室拓翔(三浦綺羅)はテレビゲームをしている。律子が応対する。わざわざすいません。ずぶ濡れの薮下。正直、気分悪いです。タオルをよろしかったら。律子がタオルを渡す。スリッパもどうぞ。濡れた靴下のまま薮下が部屋に上がる。お邪魔します。こちらにお掛けになって下さい。律子がダイニングキッチンのテーブルに坐るよう促す。今、ケーキを。結構です。紅茶か珈琲でも。では珈琲を。時間も晩いので早速本題に。うちの子、どうですか? 拓翔君、ADHDですね。今、何と? ADHD、ご存じないですか? 注意欠如多動性障害。注意を持続させることが困難で順序立てた行動がとれないんです。整理整頓ができず他の生徒に迷惑です。申し訳ありません。幼い頃から注意しているんですが…。拓翔君、髪の毛、赤いですよね? 祖父が外国人で。どちらですか? アメリカです。やっぱりそうですか。拓人君にはアメリカ人の血が混じっている。純粋な日本人じゃない。アメリカ人が戦争中にしたことを忘れてはいけない。敢て燃えやすい木造住宅の密集地域を狙って空爆したんです。拓翔君にもその血が混じっているということですよね? 日本は島国なので日本人は純粋な血が流れているのに。そういう考え方は差別に繋がりますよね? 差別? 駄目ですか? 私も人間ですから。誰でも差別意識を持っています。もちろん教壇に立っている際には問題ですけど、ここでははっきり申し上げます。あなたたちの血は汚れているんです。
向井市立希望が丘小学校4年3組の教室。1人の生徒がごん狐を朗読している。「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは。ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。兵十は、火縄銃をばたりととり落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました」。はい、ありがとう。薮下先生が生徒たちに尋ねる。一番悪いのは誰だと思う? 手を挙げ発言する生徒たち。ゴン! 兵十! 火縄銃を持ってきた人! そう、火縄銃を持ってきた外国人だな。
4年3組の生徒たちが薮下先生が10数える間に帰りの支度を調える。机の上に置いたランドセルに教材をしまい、閉じる。10を数え終えた藪下先生は生徒たちの机を廻って確認し、できた生徒を褒める。拓翔はランドセルに教材をしまえていなかった。拓翔、テンカウント失敗。何でだろう? 何でこんな簡単なこと、できないんだろうね? アメリカ人の血が混じっているからかな? 藪下先生は拓翔のランドセルを摑むとごみ箱に投げ捨てる。みんな、黒板の方を向いて! 藪下先生は拓翔を教室の後ろに立たせる。じゃあ、刑は、頭バン、ピノキオ、ウサギさん、どれがいいかな? 拓翔は選べない。藪下先生は拓翔の鼻を強く引っ張る。拓翔の鼻から血が垂れる。じゃあ、今日はここまで。日直!
律子が公園のベンチにいる拓翔を見つける。どうして塾も行かないでこんなところにいるの? 拓翔の顔や服は血で汚れていた。驚きハンカチを取り出す律子に拓翔が訴える。穢れるって辞書で調べたよ。顕微鏡で調べたら僕の血はみんなのと違うの? 穢れが他の人にうつったりしない? 拓翔は耳を怪我していた。誰にやられたの? …先生。
教室には藪下先生と拓翔の2人だけ。なあ拓翔、日本語が分からないなら、こんな耳要らないよな? 藪下が拓翔の耳だけを持って拓翔の身体を持ち上げる。
屋上で藪下先生が煙草を吸っていると、氷室律子と氷室拓馬(迫田孝也)が学校に歩いてくるのに気が付く。
校長室。校長の段田重春(光石研)と教頭(大倉孝二)が氷室夫妻と面談する。4年3組の担任から薮下先生を外して欲しいんです。何かありましたか? 拓翔はひどい体罰を受けています。それも何十回も。顔を見合わせる校長と教頭。
三角定規を使ってできる角度を答えてね。分からない人は隣の人と相談しても構わないからね。薮下先生が生徒たちの様子を確認して廻る。教室の後ろでは戸川先生(東野絢香)が授業を見学している。拓翔、何してる、後ろの人に廻してあげないと。藪下先生がプリントを後ろの生徒に渡す。その際、一瞬、拓翔を睨み付けた。
拓翔が1人で帰宅していると、薮下先生が待っていた。2人の他に周囲には誰の姿もない。君のせいだよ。君のせいで監視がついた。やりづらい、サボれないし。日本語が分からないのは汚れた血だからだよな。だったら身体で分からせるしかない。頭バー-ン、ピノキオ、ウサギさん、どれがいい? 薮下先生の拓翔の前にしゃがむ。黙ったままの拓翔。じゃあ、無条件でデコピン! 薮下先生が拓翔の額を指で弾く。何だ、その目? ランドセルを引っ張り前に引き倒す。君さ、生きてる価値ないから。死んだ方がいいかも。死に方、教えてあげようか? お薦めは屋上からバーン。嘔吐する拓翔。駄目だよ、こんなところで吐いたりしたら。
拓翔が屋上にふらふらとやって来る。縁に立つ。そのとき、律子が慌てて拓翔に駆け寄り、事無きを得る。僕の血、どうやったら入れ替えられるの? お金、いくらかかる? 律子が拓翔を抱き締める。拓翔、ごめんね、ごめんね…。
自室のベッドに横たわる拓翔を律子と拓馬が見守る。なんで拓翔がこんな目に…。拓翔が何をしたって言うの…。私、この子を守るためなら何でもする。…ごめんね、我慢するから…。

 

向井市立希望が丘小学校。4年3組の担任・薮下誠一(綾野剛)は、校長の段田重春(光石研)と教頭(大倉孝二)から、氷室拓翔(三浦綺羅)に体罰を行ったと認めるよう迫られる。山添純也(岡田伸晃)に度々手を出すので拓翔を強く注意したが、暴力を振るった覚えは無かった。校長と教頭は、氷室律子(柴咲コウ)と氷室拓馬(迫田孝也)に押し切られる形で保護者会を催し、純也の母親・山添夏美(安藤玉恵)が疑問を呈するもの、その場を穏便に済ませるために誠一が頭を下げることになった。毎朝新聞の記事「小学校教諭が児童をいじめ 『血が汚れている』と発言」に『週刊春報』の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)が食いつき、「『死に方教えてやろうか』と教え子を恫喝した『殺人教師』」として取り上げる。連日マスコミが誠一の自宅に殺到。校長・教頭は学校としては対応しないと釈明せず、市の教育委員会に丸投げする。教育長・藤野公代(峯村リエ)は誠一の訴えを聞かず停職6ヶ月の処分を下した。自宅は落書きや貼り紙で汚され、誠一の行動は記者たちに付け狙われた。妻・薮下希美(木村文乃)や息子の薮下勇気(浅井陽人)に迷惑がかかると離婚を切り出すが、希美は真実を訴えなさいと誠一を励ます。氷室拓翔から誠一に対し5800万円の損害賠償請求訴訟が提起される。原告には大和紀夫(北村一輝)ら550人もの弁護士が名を連ねていた。誠一は証人は愚か、訴訟代理人を引き受ける弁護士さえ見付からない。市民法律相談会で出会った湯上谷年雄(小林薫)は、この事件にはリアリティが無いと弁護を引き受けてくれた。

(以下では、全篇の内容について言及する。)

映画は、氷室律子の証言を再現した映像で始まる。湯上谷弁護士が誠一に告げたとおり、酷薄な振るまいの教師や酷い怪我を負った生徒にはリアリティが欠けている。だが、湯上谷弁護士のように冷静に事実を判断できるだろうか。現に550人もの弁護士が氷室の弁護団に加わったのである。
殺人教師を教壇に立たせてはいけないという義憤に駆られる人々。それを象徴するのが『週刊春報』の記者・鳴海である。自らに正義があると信じるとき、自らの過ちに盲目になってしまう。
法廷では提出された証拠からしか事実を認定できない。だから刑事事件においては、黒を白にしてでも、白を黒にする可能性を避けるために無罪推定原則が働く。だが法廷を離れても、事実かどうかの判断は限られた資料からしか行いえない。不確かな根拠に基づいて正義の鉄槌を下すという発想は、極めて恐ろしい。しかも世論の多数派に与しているとき、自らの責任はその分母のうちの1となる。そのどこまでも軽い責任しか感じない者がリヴァイアサンとなって、「悪」と名指された者を襲う。
事実は多数派によって作られる。そうであってはならない。そのことが誠一を通じて訴えられる。
段田校長が穏便に定年を迎えたくないと、氷室拓翔の両親の訴えを鵜呑みにし、誠一の主張や、事実関係の調査を行うこと無く、誠一に謝罪を求めたことが問題の根幹にある。段田校長は誠一が市教委から停職6ヶ月の処分を受けた際、文書戒告で済み、無事に定年を迎える。
段田校長も、鳴海記者も、そして世間の人々も、いじめを行ったとされる教師をいじめたことを忘れてしまう。誠一を追い詰めた人々は、誠一の前に姿を表さず、姿を消してしまう。正義の鉄槌は、本当にいじめを行った者に対して下されることはないのである。