可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 竹原永真個展『Panopticon』

展覧会『竹原永真個展「Panopticon」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年7月14日~19日。

日常のありふれた光景を得体の知れない世界へと変容させた絵画で構成される、竹原永真の個展。展覧会には「Panopticon」と題名が付されているが、個々の作品にはいずれも題名が付けられていない。

食卓を囲む3人の姿を描いた作品(606mm×727mm)では、中央奥に右手でピースサインを作る笑顔の女性、彼女の左側(画面右側)に白いランニングシャツの男性、彼女の右側(画面左側)に別の人物がいる。落ちくぼんだ目、大きな鼻、疵痕のような口など、曖昧に描かれた3人の顔は歪み奇怪でさえある。背後の食器棚、卓上のPETボトルなど一見して分明なものもあれば、卓上に置かれた皺の多い布らしきもののように解体された肉や内臓、腸などをイメージさせるものもある。
住宅街を歩く人物を描いた作品(318mm×410mm)では、人物の足から影が離れ、人物が浮遊していることが分かる。また、住宅の背後には大きな目を持つ妖怪(?)が2匹潜んでいる。
日常がちょっとした視角の変化によりまるで違ったものに見えてしまう。それは、萩原朔太郎が「猫町」で描いた感覚だ。

 (略)その日もやはり何時も通りに、ふだんの散歩区域を歩いていた。私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解わからなくしてしまった。(略)
 余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に掃除そうじされて、鋪石ほせきがしっとりと露に濡ぬれていた。(略)かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、どうしてこんな町があったのだろう?
 私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。(略)何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。(萩原朔太郎猫町」同『猫町 他17篇』岩波書店岩波文庫〕/1995/p.11-14)

踏切で線路を挟んで向かい合わせに立つ奇妙な頭部を持つ人物を描いた作品(727mm×606mm)は、両者が正反対の方向からの眼差しを示唆する。のみならず、線路は手前にある踏切から奥のトンネルへと延びている。線路の途中には、ウサギの着ぐるみ(?)が立っている。ルイス・キャロル(Lewis Carroll)の『不思議の国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)』では白ウサギがアリスをウサギ穴に導くように、本作のウサギの着ぐるみも異世界へと誘う。但し、そのウサギ穴はトンネルであり、「不思議の国」のように地下の別世界ではなく、この世界と地続き――線路伝い――なのである。換言すれば、この世界の猫町的な異貌を見せるのである。
居間のカウチに集まってヴィデオゲームに興じる人物たちを描いた作品(910mm×1167mm)に対し、格闘ゲームの画面を描いた作品(190mm×273mm)がある。ここでも正反対の視角が取り上げられている。ところで展覧会タイトルに「Panopticon」が冠されているが、それはジェレミーベンサム(Jeremy Bentham)の構想した恒常的監視システム、あるいはそれを比喩にミシェル・フーコー(Michel Foucault)が論じた管理社会というより、あらゆる(pano)視角(opticon)なのであろう。