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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 小野三月個展『はがされたシール、空へ』

展覧会『小野三月個展「はがされたシール、空へ」』を鑑賞しての備忘録
Gallery 美の舎にて、2025年7月22日~27日。

裁断してから縫い合わせた画布に描いた絵画など14点で構成される、小野三月の個展。

《Triangle ruler》(460mm×525mm)は、亀を散歩させる人のいる稲田を中心とした景観に、三角定規や手のイメージが重ねられた作品。画面の下側3分の2は、田植えを終え、水が張られた田である。水田の周囲には草叢が拡がり、木立に囲まれる。木々の向こうには青空を背になだらかな山のシルエットがオレンジ色で拡がる。水田には背の低い苗が並び、何故か亀に赤い紐を結わえて引く人が入り込み佇んでいる。水田の奥側は樹影を映すが、樹影より遙かに大きい右手が映り込む。棒の先に軍手が取り付けられているようにも見えるため、案山子の手の表現とも思えるが、時期尚早である。田植えを終えたばかりだからである(画面の左上の「5」は、5月のことだろう)。左側5分の1の辺りに縦に縫い目が走っている。切断した画布を縫い合わせた跡で、縫い目の上方、画面左上の角を右下45度の方向に移動させた位置に30度・60度・90度の三角定規が描き込まれている。さらに視線を同方向に動かすと、散歩の人物に至る。人物・水面・リードが直角三角形であることに気が付く。そして、散歩する人物のオレンジのスカートと青いシャツが山と青空に対応していることに。散歩者と空を背景とした山並み、そして水田=水鏡のメタファーである透明の三角定規を介して相似なのである。ところで、散歩者と亀と人とはお互い真反対に進んでいる。直立し、立ち止る人から亀が歩き出すことによって三角形が形成される。この右方向の動きに対し、水鏡の右手は右から左へと差し伸べられる。さらにこの手の左方向への動きに対して、三角定規が右を指し示す。30度の頂角に誘われ右へ視線を巡ると、晴天に白い帽子を被った女性の小さなイメージが挿入されているのが見える。超越的な地位に立つ彼女は三角形で構成される世界の支配者(ruler)である。

《Hometown》(650mm×865mm)は、水辺の景観を見下ろすように画いた作品。画面下側3分の1は川か、水が覆い、画面からは切れるが大きく蛇行し、画面右上の方へと迂回していくらしい。水辺に沿ってオレンジ色の岸が画面中央に延びる。画面左側には森と思しいビリジアンの暗部が拡がり、画面上端は山影かあるいは夕日にピンクに染まる雲、さらに黄色い空が拡がる。水辺を描いた上、滲みが印象的で、一見したところ、丸山直文を連想させる。オレンジの岸に立つ人は、小さく影として点じられている。画面左側には真上に向かって左手が伸ばされる。岸辺の人物に向かって挨拶するのだろうか。画面右下の水面には杏仁形に画布が縫い合わされ、旅客機が描かれている。水面は空へと反転する。また川面には煙突の立ち並ぶ工場地帯の極小さなイメージが、あるいは岸辺に明るい黄色の水鉄砲のイメージが挿入されている。画面中央、画面左側などに画布を縦方向に縫い合わせた跡が複数見える。その縫い目の間で、オレンジの岸辺をルービックキューブが転がる。ルービックキューブにおいて異なる色が隣同士に並ぶ状況は、組み替えることで、同じ色の面に揃えることができる。だが作家は、色ごとに揃えることはしないだろう。様々な存在が隣り合う関係を結び付ける。

《Shooting》(1303mm×1620mm)は、左上に斜めに、あるいは右上から下に向かって画布を縫い合わせた跡が走る画面に、森の景観を描いた作品である。中央には紡錘形など抽象的な形の深緑やモスグリーンのイメージを並べて森を表現する。やや粘性を感じる木々の影と相俟って、牛島憲之を想起させる。木の中に1本、アイスクリーム用の木の匙が紛れ込み、その傍らに黄緑色の水鉄砲が配される。森の手前の開けた場所には、サッカー選手であろうか、2人ほど赤いユニフォームを着た人物が描かれている。木に比して極端に小さい。画面上端には、《パルテノン》(220mm×273mm)で描かれる建築物のイメージが小さく挿入されている。網膜には、カメラのレンズに写り込むのと同様の景観が写り込む。だが視覚の認識は網膜の像そのままではない。まして絵画の役割は、光学的な記録ではない。水鉄砲やサッカー選手により撮影=シュート(shoot)を意識させつつ、アイスクリーム匙により自分の味わう一口を掬い取る(scoop)ことを打ち出すようである。

《卵を埋めるⅠ(それが有精卵である場合)》(1303mm×1620mm)は、夜の草地で地面に突き立てたスコップの傍らに立つ人物を描いた作品。暗い中、裸足で草地に立つ赤いTシャツと白いショートパンツが眩しい。人物の頭髪は風により右方向に強く吹き流されている。人物の脇に画布を縫い合わせた跡があり、そこから少し間を開けて、人物の頭部と同じ高さに、白い糸で縫い付けることで表わした円がある。これが卵だろう。草地で卵を埋めるとなると、バッタ(grasshopper)などを連想させる。スコップは産卵管の代わりだろう。裁断した画布を縫い合わせることで画面の有限性を提示する作家は、絵画の平面性という限界を、画布の下を意識させることで暗示するのである。

《May Blues》(910mm×725mm)は突堤で展開する神話的な物語に、人形、ブロック、木馬などの玩具を散乱させる。子供の持つ想像力、世界を作り上げる力を提示する。《Play》(516mm×456mm)は、(線路を繋ぐ)鉄道の玩具で遊ぶ子供のイメージを挿入した山と空の景観に点と数字を配して点繋ぎとする。空に描かれた点繋ぎは星座のメタファーであり、作家独自の神話の創成である。これらの作品は、画布を縫い合わせるという物理的な処置こそ施していないが、イメージを繋ぎ併せることのできる絵画の力に賭けている。

ティーフを切り離し、組み替え、改めて繋ぎ合せる。それは星空に神々の物語を見出すようなものである。それが「はがされたシール、空へ」の謂いである。