展覧会『新世代への視点 2025 蔡云逸展』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2025年7月21日~8月2日。
夢と現実との相互依存性を前提として、言葉=論理の組み合わせにより作り出される夢の中の「現実感」を再度現実に投映するための手段としての絵画で構成される、蔡云逸(Cai Yunyi Clarice)の個展。
《A Dream of the Red Dragon》(1800mm×1300mm)の画面左下には尾鰭のような赤味の差す衣を脚に纏わり付かせた裸体女性、画面上段左側にはまぐわう男女と背を向けてお互いに反対側の縁に腰掛ける男女とのいるベッド、画面右側には暗闇に浮かび上がる雷のような梯子がそれぞれ描かれる、ほぼモノクロームの作品。画面左下に背を向けて立つ裸体女性の身体は引き延ばされたプロポーションで、とりわけ脚が長い。その長い脚の脹ら脛に赤っぽい布が纏わり付き、足元に尾鰭のように垂れている。彼女の頭部はベッドのある空間に半ば入り込む。寝室は女性の見る夢であろう。ベッド中央には女性に覆い被さる男性がほとんどシーツに溶け込むように表わされ、ベッド両側の縁には翼を生やした男性と裸体女性とがそれぞれ腰掛ける。画面左端には二重螺旋が描かれ、彼女と夢の世界とが繋ぎ合わされている。また、画面右側には稲光のようなジグザグの線が2本闇の中に浮かび上がる。画面右上には夢の世界を貫入して拡がる闇に「梯子」がかかるのは、現実への通路であり、夢と現実とが往来可能であることを明らかにしている。
《A Dream in Madrid》(651mm×530mm)は、右上から左下への斜線2本で画面を3に分割し、中央に寝室、左上と右下の画面にクピドを描く、ほぼモノクロームの作品。「寝室」を中心として画面を斜めに用いる構造は《A Dream of the Red Dragon》と共通する。「寝室」の右上には板状のシンプルなベッドがあり、眠る人物と腰掛ける人物とが曖昧に描かれる。左下には闇の中に黒猫が飛び掛かる扉があり、ベッドの方から裸体女性が近付く。眠っていた女性が猫の声に目を覚まし入口へ向かう異時同図法である。左上には雨の降る中、闇(猫に近付く女性)を覗き込むクピドが、右下には蔓のような綱状のものを抱えるクピドと、「蔓」の連なる植物(?)、判読できない欧文の書き込みがある。「蔓」はベッドに腰掛ける人物、ベッドに横になる人物、さらには叩き付ける雨の降る空へと伸びて、切断された画面を繋ぎ併せている。猫は女性を見守る天使だろう。猫(扉)に近付く女性の近くに配された朱の斜線は現実と夢とを往き来するための裂け目ではないか。
本展のキーヴィジュアルに採用されている《Iron Spade Ace (Madroño)》(1455mm×1120mm)は、カードを手に寝そべる裸体の男性と、文字"A"、イチゴノキ(Madroño)などを描いた、ほぼモノクロームの作品である。画面下部には、草地あるいは緑の床に頰杖を突き横たわる裸の男性が配される。右肘を突き、左手にはカードを手にする。彼の胸と股間に刺さるようにAの文字が書かれている。彼の太腿の辺りからイチゴノキが生えている。そのシルエットはスペードを表わすのだろう。スペードより男根に近い形状である。陰茎を男性の剣と看做せば、剣に由来するスペードによりふさわしい。絵画全体がスペードのエースのイメージを構成するのである。イチゴノキの樹冠からは寝室にいる裸の女性のイメージが覗く。眠る女性の見た夢が男性とイチゴノキなのである。男性やイチゴノキの背後にはグレーの壁とともに開口部がある。夢と現実とは接続している。
《Eden》(1167mm×910mm)には、裸体の男性の立像、猫、白い蛇、樹木などが描かれる。背景の淡い青や淡い赤、身体のペールオレンジ、猫の青、樹木の緑など、色味がある。アダムと思しき男性は正面を向いて立つ。やや縦方向に引き延ばされたプロポーションで、長い腕を持つ。彼の左腰の辺りには青い猫が抱えられているように重なる。画面右側にはスペードのような形の樹影があり、樹冠には青い円が見える。知恵の木であろう。傍らには白い蛇が頭を覗かせる。男性の右腕に重なるように描かれた脚はイヴらしい。この場から立ち去ることを暗示するようだ。イヴを隠すような闇の中には朱の紱が描かれる。染色体を連想させよう。
《Untitled》(909mm×727mm)は、格子と斜め格子を組み合わせた赤味のある柵を背に、背を反らせる裸体男性の姿などを描いた作品。後ろ向きの男性の右脚の辺りには"A"の文字が重ねられる。スペードのエースのシリーズに連なる作品なのだろう。男性の身体の周囲には植物らしきものが描かれるが、それが何であるかは判然としない。
《Untitled》(1300mm×3240mm)の横に長い画面には、同じサイズの3つの正方形が等間隔に並び、それぞれ床と壁、フランス語の文章の断片、チェス盤が描き込まれる。「フランス語の文章」の左側には背を向けて立つ裸体男性、「フランス語の文章」と「チェス盤」との間には正面を向いた裸体女性の胸像がそれぞれ配され、画面下端には白、群青、緑、赤などの十字が無数に描き込まれている。建築、文章、チェスは、二重螺旋や知恵の木の実などと同様、秩序であり規範である。そして、知恵の木の実を巡る禁止規範に抵触することで人間の世界が始まったことからすれば、規範=秩序の崩壊こそ世界なのだ。規範=秩序なき世界に新たな規範=秩序を打ち立てるゲームとして、世界はある。
《Fallen Angel》(1167mm×910mm)は、青い格子の上に不等辺五角形のタイルが重ねられ、"A"の文字と、"A"の形を模倣するように両脚を拡げた裸体男性を描いた作品。かつて天界にいた天使たち(堕天使)は禁じられた知恵を授けることで人間を堕落させる。
夢にせよ、現実にせよ、全てを謎として読み解くこと(再解釈)は、既存の秩序に対する挑戦であり、新たな秩序の創出である。それこそ芸術の営為であろう。