可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 服部圭能個展『故郷へのメヌエット』

展覧会『服部圭能個展「故郷へのメヌエット」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年7月28日~8月2日。

海をモティーフとする作品を中心に、対象との距離を感じさせる絵画で構成される、服部圭能の個展。

地下にあるギャラリーに向かい階段を下るとまず眼に入る作品は、白く霞んだ褐色の画面(530mm×455mm)。左手前と奥に白いものが見えるが何を表わすかは判然としない。近付くと、くすんだ藍色とわずかに赤味や黄味を帯びた白のかさついた画面を紙鑢のようなもので削ってあることが分かるが、かえってイメージの把握は難しくなる。《Polar Bear》と画題を確認して、手前の白い影が片方の前肢を前に突き出したホッキョクグマと知られた。動物園で展示される個体を描き出したものだろうが、模糊としたイメージはホッキョクグマを比較的間近で捉えながら心理的な距離を感じさせる。動物園の展示場では鑑賞者と動物とは柵などで仕切られる。境界は他の作品で見られる海岸に通じる。また、動物園の個々の檻は周囲を囲われて隔絶するという点で、島でもある。《Polar Bear》が冒頭に位置付けられているのは、そのためであろう。
《Vanishing Horizon》は横に長い画面(110mm×400mm)に、フロントドア、フロントピラー、センターピラーで切り取られた車窓を描いた作品。右側にはほとんど降ろされたフロントドアガラスとドアミラーがある。画面の中央には、うっすらとした線が中途で途切れながら横に走る。それは島影に挟まれた水平線であろうか。車のボディによって切り取られた世界が、直角三角形を呈する半ば降ろされたフロントドアガラスの斜線により強調される。さらに、板に張った布による支持体は画面にストッキングを被せたように見え、窓外の景観との心理的距離を増幅させている。《From the Hospital room》(410mm×318mm)では部屋の窓から望む眼下の家並と遠くの山並とを窓(枠)越しに描くが、模糊としたイメージは画面下部の波状の白い帯によってレースのカーテン越しであることが表わされる。
本展のキーヴィジュアルに採用された《The bone of the Field》(910mm×727mm)は、下から上へと茶の面、白い帯、青い線、黄・白・青の模糊とした拡がりにより砂浜、波、水面、空を描き出した作品。抽象度の高い海岸の景色は、画布が薄いために四周に青く浮き上がる木枠が窓枠となってフレーミングされたものだ。水平線の上に葉と赤い花とを付けた1本の植物が横倒しに描かれている。模糊とした景観に対し、植物は絵具を盛り上げるほど用いて写実的である。水平線に平行に浮かぶ緩やかに彎曲する植物は、水平線という線がフィクションであり実在しないことを強調し、景観の骨組みが世界の側にあるのではなく、見る者の中にあることが示される。
《The shell after the Rain》(652mm×1000mm)は白い画面の周囲などに擦れた、あるいは滲んだ黒を軽いタッチで塗り、右上にわずかに水色や紫を差した、極めて抽象的な作品。湿り気のある茫洋とした世界は、霧に覆われた松林を描いた等伯の《松林図屏風》に通じる。画題の示す、雨に濡れる貝殻とは湿度の高い島国のことではなかろうか。日本における風景画=絵画の核を取り出して見せるのである。
《Birth Cry》(1620mm×1120mm)は、黄・赤・青・白のタッチを重ねて塗り込めた抽象度の高い作品。下端に白く塗った部分を帯状に配し、赤味が強い部分、青味が強い部分などの層が下から上へと緩やかに遷移しつつ連なっている。マーク・ロスコ(Mark Rothko)の作品に通じるものがある。誕生を意味するタイトルを勘案すれば、茫洋とした世界は原始スープであり、これもまた一種の海景であると知られる。
《Minuet to the Home》(1120mm×1940mm)には、砂浜に打ち寄せる波と海・空の拡がりを描いたと思しき画面に、緑、青、茶などの不定形の塊が浮かべられている。青、黄などでくすんだ砂浜を、白で打ち寄せて砕ける波を、水色で海面を、白い線で水平線を、青・黄・赤・白のタッチを重ねることで空を表わしてある。その画面には
、顕微鏡で見られる微生物や細胞のような透き通った色の不定形の形が散らばっている。《Birth Cry》が原始スープを表現するなら、《Minuet to the Home》における"the home"とは生命を誕生させた母なる海でありうる。ならば、同題・同サイズで2点ある《Waves lapping, sand caressing.》(455mm×380mm)や《flotsam》(652mm×1000mm)において描かれる海岸に打ち寄せられたものども――例えば流木――は、生命の似姿である。翻って、《The bone of the Field》に描かれた植物もまた漂着物であり、生命であり、つまるところ、私たちの姿であったのだ。風景は眼差しを注ぐ者がいて初めて存在する。眼差しこそ風景の骨格なのである。