可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大久保紗也個展『その蛇は』

展覧会『大久保紗也「その蛇は / Is that snake」』を鑑賞しての備忘録
WAITINGROOMにて、2025年7月12日~8月10日。

中世の説話集『古今著聞集』に伝わる、古い薬師堂の改修の際に大釘に打たれたまま大きな蛇が生きていたというエピソードに、モティーフを画面に定着させる絵画のアナロジーを見出し、なおかつそのエピソードが伝承の過程で変容を蒙りながらも変わることのない主題に感銘を受け、同様のモティーフを描いたサイズの異なる絵画を積み重ね作品とする、大久保紗也の個展。

表題作《Is that snake》(1455mm×1120mm×145mm)は、のた打つ蛇の姿を辛うじて認めることができなくはない、モスグリーンと黄を中心にオレンジを差した抽象的な絵画の下に、白を平板に塗った上で緑系統の色を横のストロークで繰り返し描いたり、黒や茶などを荒々しく塗りたくった画面から、のたうつ蛇のイメージをマスキングテープを剝がして露出させた下地により表わした、サイズの異なる絵画4枚を重ねた作品。一番上に位置する、モスグリーンを基調とした画面が起源となるイメージであり、下の4枚でも同様のイメージが下地に描き込まれている。白や緑、黒などの塗り潰しや描き込みが蛇の物語の再話による脚色ないし変容を表現する。画布の大きさが次第に大きくなるのは、脱皮して成長する蛇への連想を生み出しつつ、物語の伝播の地理的拡大と聞き手(読み手)の増大とを、象徴する。

 二段に重ねられる鏡餅は、自分の身体の上に身体を重ねてトグロを巻く蛇の姿さながらである。また、鏡餅を上からみれば、そこにあるのは大小二重の輪であって、それはまさに蛇の目紋である。
 そこで、鏡餅はトグロを巻く蛇そのものの造型であると同時に、カカメ〔蛇眼〕、つまり蛇の目の造型でもあろう。(吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社講談社学術文庫〕/1999/p.152)

画布を積み重ねた姿は、トグロを巻いた蛇の姿に由来する鏡餅、あるいはボロブドゥール遺跡のような階段ピラミッドを連想させるが、上よりも下を、右寄りも左を、それぞれより広くとるように画面を積み重ねてあり、作品の中心は右上に偏っている。曼荼羅のような整然とした宇宙とは異なり、人間の世界の歪みを表わすようでもある。

 たとえば、中国の天地開闢創世神は伏犠・女媧という男女の陰陽神であるが、この二神の神像は人面蛇身の兄妹神で、しかもその尾を互いにからませ合っているから夫婦関係を示している。要するに、中国の祖神は蛇なのである。藤堂明保教授は、
「女媧の媧とは、窩や渦と同系のコトバだと考えられる。丸くトグロを巻いて、うずまきの状態を呈するヘビの姿、または女性の象徴である穴(陰門)を示すコトバであろうか。……伏犠(伏羲)は昔、包犠とも書いた。包の原字は勹印で、これは「つつむ」という意味を含む。包むのは大きいものである。……犠は犠牲の犠(かっこうのよい牛)と同系のコトバで、斉然と整って姿のよい意味である。つまり伏犠(包犠)とは、姿の整った美男英雄のことに違いない。」(藤堂明保『漢字と文化』)
と説いておられる。教授は蛇体の伏犠氏が男根そのものを象徴するとは言っておられないが、草むらの中などをうねり、時に硬直した頭を擡げる蛇の姿に男根が感じられないものだろうか。むしろこの方に古代人は性を感じたと思うのである。とにかく蛇のこの夫婦心は劫初の洪水をのがれ、天の裂け目を繕って平和を招来し、子供をつくって栄え、人間の祖となったのである。要するに、蛇は性そのものと言える。(吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社講談社学術文庫〕/1999/p.278-279)

作家はこれまでもマスキングテープを使って下地を露出させることでイメージを表わして来たが、その行為は図らずも脱皮をなぞってきたようでもある。

 脱皮とはつねに間髪を入れず自分自身の殻にこもりなおすことである。自分自身のカラとはつまり自身が1つの穴そのものであることである。カニにしてもヘビにしても、脱皮した瞬間に新しい皮の中にこもっている。その新しい皮はまだ非常に柔らかく、したがって、脱皮直後の動物は最も危険な状態にいるわけである。しかし、いくら柔らかかろうと脆かろうとその外皮はすでに新しいカラには違いない。脱皮とは古い皮を脱ぎ、外界に新しく生まれ出たことではあるが、外に出たように見えながら、実はそれと同時に新しいカラにこもっていることなのである。自分自身という穴の中にこもりなおしている。自身こそは世界の中央である。中央の穴にこもり、その穴を時が来れば突き破り、突き破りして生命を更新する。その動きは中央から中央である。中央に生命を重ねていく。その様相は古代日本人(それを弥生人と私は想定するが)にはまことにめでたいものと感得された。(吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』講談社講談社学術文庫〕/1999/p.285-286)

《female carpenter》(1167mm×910mm×83mm)は、主にピンクで腕を前方に拡げて四つん這いになる女性の身体を描いた画面の下に、ベージュを平板に塗った画面にオレンジ、青、黄、茶などの絵具を荒々しく塗り、マスキングテープを剝がして露出させた下地により女性の身体を表わした、サイズの異なる2枚の画面を積み重ねた作品。展覧会が「その蛇は / Is that snake」と題されていることから、"carpenter"に"serpent"との繋がりを思わずにいられない。大工[carpenter]と言えばヨセフであり、キリストは大工の子である。また、女性と蛇と言えば、エデンにおいて蛇に知恵の木の実を食べるよう告げられたイヴを想起させる。ならば、《female carpenter》とは、ヨセフの「娘」、すなわち女性のキリストを表現した可能性があると言えるのではないか。

 救世主と呼ばれるキリストは、なぜ男であって女ではないのか。アダムとイブ以来の人間の罪―原罪―を償うべく十字架にかかったとされるのが、男ではなくて女だっとして、いったいどこが悪いというのか。
 あたかもそう言外に匂わすかのように、名詞「クリスト」を女性形にした《クリスタ Christa》というタイトルで1975年にブロンズ彫刻を発表したのは、イギリスの女性アーティスト、エドウィナ・サンディーズ(1938生)である。(略)
 その作品では、胸もあらわな裸の女性が、茨の冠をかぶってうつみき加減でうう直にかかっている。全身は5フィート(約1.5メートル)、広げられた両腕は4フィート(約1.2メートル)の大きさだから、サイズの面でもかなりの存在感がある。ブロンズの表面はあえて滑らかに磨かれることなく、ごつごつした肌触りを残したままで、全身の皮膚に痛々しい受難の跡を刻印させているようにも見える。キリストが受けたとされる苦痛は一時のことであったが、この十字架上の「クリスタ」は、さながら2000年もの苦しみに耐えてきたかのようでもある。
 (略)
 ところが、以外に思われるかもしれないが、女性が男性に成り代わって十字架にかかるか、あるいは、十字架のイエスがまるで女性に変装しているようにみえるといった、荒唐無稽でトランスジェンダー的なストーリーは、それよりもはるか以前、中世から近世のキリスト教徒たちの想像力を大いに刺激してきたものであったのだ。
 たとえば、空想上の民俗聖人ウィルゲフォルティスをめぐる伝承がその典型である。(岡田温司『キリストと性―西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.102-108)

古い薬師堂の屋根の下で60年に渡って釘付けにされた蛇は、2000年もの苦しみに耐えてきたかのような十字架上のクリスタへと変ずる。