展覧会『第38回大学日本画展 間―現れる景 東京藝術大学日本画博士課程3人展』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2025年7月26日~8月10日。
東京藝術大学大学院美術研究科日本画博士課程に在学中の佐藤八弘、栁沼花音、林銘君の三人展。
佐藤八弘
《浮遊の記憶》(1620m×1620mm)は、中央のウミサソリの化石の残る石板の周囲に鉢植えのウチワサボテンを配した絵画である。ウミサソリのハサミとウチワサボテンの平たい茎節が相似である。波の打ち寄せる磯の海面から覗く岩に立ち翼を拡げる白鵜を描いた《白鵜》(1167mm×1167mm)においても、白鵜の翼、海に立つ波、岩の形が波形で相似であり、種・生命を超えた形態の一致、言わば絵画における掛詞に対する興味は明らかである。翻って、《浮遊の記憶》のウミサソリの石板の背後には海底が拡がり、泳ぎ回るクサアジ(?)の1匹がウミサソリの石板の中に入り込む。現代と古代とのアナクロニズムに加え、海中と地上のアトポス[άτοπος](out of place)が実現されている。
《鳳凰の夢》(530mm×530mm)では、手前にある台に置かれた鳳凰の置物がシルエットとして描かれる。その周囲に南天の枝を差したグラス、アイリスの花、シャベルを挿した鉢植え、天球儀などが並べられる。背後には黄土色の縁で区切られた暗緑色の模糊とした空間が拡がる。《百合に龍》(530mm×530mm)では、画面手前下部の龍の置物に、ガラスの花瓶に活けた百合の花(4輪の花と2つの蕾)、小枝を銜え飛ぶ鳥、貝類の化石(?)などが組み合わされ、背後は縁に囲まれた青い闇が覆う。両作品に組み合わされた生物・無生物は、花器に活けた花の存在によって、絵画を生け花のアナロジーとして提示しているのではないか。野外に咲く花を切り取り室内に飾る生け花とはアトポスに他ならないからである。アナクロニズムの映像に親しみ、延いては全てがデジタルデータに変換される社会、換言すれば、全てが眼差しの対象として等価となるミュージアム化した世界、その似姿としての絵画である。《月杜》(910mm×910mm)において、桜樹と、その水鏡に反転した、言わばデジタルデータに比せられる桜樹とを、テオドール・アドルノ[Theodor Adorno]が霊廟[Mausoleum]に擬えた博物館(Museum)に等しい枯れ木に潜んで見据える梟こそ、作家の自画像に違いない。だから絵画には常に夜の雰囲気が濃厚なのだ。
栁沼花音
《共生―巡る道―》(1600mm×4800mm)は、苔で覆われた森の中を描いた作品。白っぽい樹皮の木々が立ち並ぶ森の起伏のある地面をくすんだ緑の苔が覆う。森の中には苔の生えている地面に入らないよう誘導するための板敷きの道が木々の間をジグザグに縫いながら延びる。画面手前の大きく疎らに生える木々に対して画面奥の密に生える木々、画面手前の木々の根が網の目のような拡がりとなだらかな苔、あるいは直線的な板敷きの道といった対照は、オフホワイトあるいはベージュとくすんだ緑とで統一された色味により調和する。《祇園精舎》(1400mm×650mm)では着物を被った人物が満開の沙羅双樹の木の上に潜む姿を描いているが、着物と幹とが接続し、人と植物とが渾然一体となる。人と自然との一体化という点で《共生―巡る道―》と同旨である。
《呼応の相》(1818mm×2273mm)は、石を摘んだ塀、壊れた板塀や竹垣などで画面を覆い尽くした作品。苔や雑草が生えた切石、木目がはっきり現われた板、細い竹の連なりなど全面を壁が覆う。その「壁」の開口部である入口や、破れや崩れからは、格子状の構造物や棕櫚の葉などが覗く。種々の直線や曲線の集積による絵画である。ごちゃごちゃとした線は五月蠅く感じられそうだが、銀色を差しつつ、くすんだ淡い灰赤で統一された画面は、破れや崩れによる朽ちつつある世界が引き寄せる死のイメージと相俟って、静謐ですらある。会場で向かい合う《共生―巡る道―》とは、赤と緑、死と生とで対になっているとも言える。否、死とは輪廻による再生である。両者は《祇園精舎》の諸行無常により結び合わされ、平曲を介して生=死のカノン[canon]を奏でるのである。
林銘君
《浮舟》(1620mm×1200mm)には、暗い空間の手前から奥に、等伯の《松林図屏風》を連想させる、霧中の針葉樹林が描かれた三扇、五扇、三扇(右端が画面から切れている)の屏風が1隻ずつ間を詰めて並び、白い紙でできた鴉20~30羽が屏風の上方から吊されている。屏風は霧中からゆらりと姿を表わす木々を模倣するように異様に高さがある。上方から俯瞰する形で捉えられた屏風の下部が闇の中に溶けていくのも、高さを強調するのに影響している。樹影の曖昧さに対し、空間を鋭く切り取る黒い椽が印象的である。その黒い鋭利な境界線に抗うのが白い紙の鴉の群れであり、扇の中に糸で吊されているように描かれつつ、屏風から空間へと飛び出している。マウリッツ・エッシャー[Maurits Escher]を連想させる錯視的な諧謔により、分断された世界を軽々と飛び越えていく。もっとも、画題は《浮舟》である。白い紙でできた鴉たちが浮くのは、糸に引っ張られてのことである。憂き鴉の行方は判然としない。なお、7曲一隻の屏風に裸木とともに白い紙製の鴉が吊される場面を描いた《澪標》(910mm×910mm)も並ぶ。
《局》(1300mm×1620mm)は、薄暗い空間の奥に裸木の樹林を描いた屏風が立てられ、その手前に4枚の衝立が互いに向きを違えて置かれ、手前の床に5羽の黒い鴉が落ちている様を表わした、アクロバティックとも言える奇想による枯木寒鴉図の変種である。衝立には何も描かれておらず、ぼんやりとした明るさで屏風に描かれた景観を隠している。床に落ちた鴉は糸で繋がれており、その糸を辿ると、床から衝立を越えて屏風に描かれた裸木の枝に到る。ところで、《帰虚》(600mm×910mm)では立ち並ぶ二曲一隻の屏風が薄暗い空間を迷路へ変貌させる中、2本の裸木が佇む。裸木に対して屏風=スクリーンには葉を繁らせた木々の樹影がぼんやりと浮かび上がる。個人も建築(≒都市)も映像(そして、映像を捉えるカメラ)で覆われる、「出口なし」の社会が揶揄されている。翻って、《局》の屏風の景観にプライヴェートな空間(=局)を、衝立にスマートフォンなどのディスプレイを見て、空虚な二次・三次情報に飛び付いた者が迎える悲劇的終局と解することもできよう。《間》(210mm×310mm)において、二曲一隻の屏風が7枚立てられた薄暗い空間を這い回る5匹の蝸牛のように、自らの局(殻)を手放すべきではないのだろうか。