展覧会『興梠優護「XX」』を鑑賞しての備忘録
Bankrobber LABO Shibuya Tokyoにて、2025年8月1日~18日。
肖像画10点で構成される、興梠優護の個展。
《/ 152》(455mm×333mm)は、灰色がかったセピア調の画面に目を瞑って顎をあげる、ヴェールを被った女性の顔を描いた作品。眼窩、鼻、唇、顎などの蔭が白い顔に配されたぼんやりとしたイメージは、ウジェーヌ・カリエール[Eugène Carrière]の絵画を連想させる。
《/ 151》(410mm×273mm)は、∩状に垂れる白みのあるオレンジの布の上部からに頭髪のようなものが被さる様子を表した絵画。放物線を描くオレンジの布の左右で傾斜が緩くなる部分が肩のようで、ヴェールを被った人物に見える。ヴェールの尖端からは中央を開けて左右に髪のようなものが被さる。
《/ 150》(455mm×273mm)には、黄色い布が∩状に垂れ、右側では一旦膨らんでから窄まり、再び膨らんで画面下端に落ち、左側でも一旦張ってやや窄まり、突き出してからまた下に落ちるように描かれ、腕を組んで立つ女性の上半身を左後ろから描いたように見える。「彼女」の「腰」は片身替のように明るくカサカサとした表情を見せ、その部分が衣装、それより上側が髪のようである。
ところで、ヴェールの絵画といえば、プリニウスの伝える古代ギリシアの画家たち、ゼウクシスとパラシオスの逸話を思い出さないわけにはいかない。プリニウスは、その『博物誌』(1世紀)のなかで、こう書いている。
ゼウクシスはブドウの絵を描いて、それをたいへん巧みに表現したので、鳥どもが舞台の建物のところまで飛んできた。一方パラシオス自身は、たいへん写実的にカーテンを描いたので、鳥どもの評決でいい気になっていたゼウクシスは、さあカーテンを引いて絵を見せよと要求した。そして自分の誤りに気が付いたとき、その謙虚さが賞揚されたのだが、自分は鳥どもを瞞したが、パラシオスは画家である自分を瞞したと言いながら賞を譲った、という。(中野定雄他訳)
(略)
とはいえ、ジャック・ラカンもいうように(『精神分析の4つの基本概念』1964)、パラシオスのヴェールの絵画は、なによりもその背後にあるもの、向こう側にあるものを見ようとする欲望を喚起する点で特徴的である。フェノメーヌ[現象]の背後にはヌメーヌ[本体]があるかのように。ゼウクシスは、表面=ヴェールの背後に、深みになにかがあると考えて、すべてが表面として、見られるものとして与えられていることに気づかない。ここでは表現が現にあるところのもの以外のなにかであることを装うのだ。トロンプ・ルイユ[眼をだます]とは、そういうことである。
プラトンが絵画を否定したとすれば、、それは、絵画が対象と等価のイリュージョンを与えるからではなくて、まさに絵画がトロンプ・ルイユ[だまし絵]として、現にあるところのものとは違うなにかを装うからである。しかし、絵画は=仮象と競うわけではない。プラトンが表面=仮象の向こう側にイデアとして設定するところのものと競うのだ。絵画は、ひとつの表面を与える表面なのである。アルベルティは、絵画をヴェールにたとえたけれども、これを言葉の十全な意味で受けとらなければならない。絵画はヴェールなのである。(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2001/250-252)
《/ 180》(410mm×318mm)は、女性の顔をずらして重ねるなどして、額に鼻が、唇が2つ横に並ぶなど、福笑いのように見える女性の肖像画。画面右寄りに茶色い髪の女性が縦に2つ重ねられる。上側の女性の口に下の女性の右目が当たる。唇は2人の顔の位置とは関係なく、下の顔の中央辺りに横に2つ並ぶ。顔のパーツが増殖し、あるべき位置からずらされている。さらに画面左側には、別の女性の顔のイメージが赤の濃淡で描き込まれている。
《X 27》(652mm×300mm)は、歯を覗かせた口、目、鼻などを、90度傾けて、肌や髪のイメージの間に複数配した作品。画面右側から画面中央にかけて肌が拡がり、その上下に生える頭髪の中に、歯を覗かせた口が縦に4つ並び、あるいは頭髪に接するように散る。目や鼻も肌の中にいくつか存在する。主人公が若さを手に入れようと細胞分裂を活性化させる未承認薬を誤用したことで異形の身体となる映画『サブスタンス[The Substance]』(2024)を連想させる。肖像の映像加工や身体の美容整形の氾濫を揶揄するようだ。右側から飛び出した異形の身体の背後には、人の胸像のような影がぼんやりと浮かぶ。福笑いにおける面の輪郭のような影は、正常や規範といった枠組みが虚構であると訴える。混沌としたイメージ=絵画は絵空事ではない。それこそが現実である。
ポール・ヴァレリーは、その「固定観念」(1932)のなかで、「人間において最も深いもの、それは皮膚である」と述べている。もとより、これはひとつの逆説である。これはヴァレリーなりの、「表面に、皺に、皮膚に、敢然として踏みとどまること」の表明にほかなるまい。もっと端的に彼はこう続けている。「生はいかなる深さも要求しない。その逆である。」
背後に、深みに「真理」を求めてはならない。それは無益なわざであろう。語の最も十全な意味において感性的なもののレヴェルに「敢然として踏みとどまること」、そこにしか生の意味はない。そのような「意志」において、生ははじめて美たりうるだろう。ニーチェもいうように、「美的現象としてなら、われわれは生を依然として耐えることができる」のである。(谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房〔ちくま学芸文庫〕/2001/258)