映画『海辺へ行く道』を鑑賞しての備忘録
2025年、日本製作。
140分。
監督・脚本は、横浜聡子。
原作は、三好銀の漫画『海辺へ行く道』シリーズ。
企画は、和田大輔。
撮影は、月永雄太。
照明は、後閑健太。
録音は、岩丸恒。
音響効果は、渋谷圭介。
美術は、塚本周作。
装飾は、榊さくら。
衣装は、藪野麻矢。
ヘアメイクは、澤田久美子。
編集は、大川景子。
音楽は、荘子it。
海を臨む高台の道に黒猫が姿を現わす。蛇行して港へ下る道の途中には「わが街はアーティストの移住を積極的に推進します」と記された汐鳴市の看板が立つ。
夏休みの中学校。グラウンドでは運動部の生徒たちが練習に励む。美術部の南奏介(原田琥之佑)が後輩の立花良一(中須翔真)とともにロールキャンヴァスを運んでいる。演劇部に頼まれ、舞台の背景幕を制作するのだ。先輩、暑いですね。暑いって言うな、涼しいって言え。
突堤に静香(坂井真紀)がビーチパラソルを立ててテーブルを置き、ランチメニューを並べる。いらっしゃい。黒猫が近付いてきた。ここにあなたが食べるものはないの。猫は猫の食べるものを食べるべきよ。黒猫が立ち去る。
打ち合わせいつやるの!? 校庭でロールキャンヴァスを運ぶ奏介を見かけた新聞部の平井ほのか(山﨑七海)が校舎の中から尋ねた。またの機会に! 先輩、新聞部にも入ってるんですか? 入った覚えは無い。
海辺の道を青いヴァンが走る。黒猫いた! 助手席のヨーコ(唐田えりか)がハンドルを握る高岡(高良健吾)に訴える。猪じゃないのか? 黒猫だよ。幸先悪いな。いいことあるよ。
不動産会社の谷川理沙子(剛力彩芽)が雨戸を開ける。ここはこの前まで陶芸家がお住まいだったんです。理沙子が内見に訪れた高岡とヨーコに説明する。ヨーコは備え付けの家具や内装を気に入ってはしゃぐ。1つ欠点がありまして、雨の日には排水溝の匂いが上がります。気にしないです、鼻が悪いんで。海が見えないね、波の音は聞えるのに。ちょっと歩くんです、10分くらいかな。それでも車を使えば便利なんですよ。ショッピングモールも2つあります。良かったな、ニトリならどれだけでもいられるから。2人はこの部屋を借りることを即決する。
朝、奏介が居間に降りると、階段下の猫の餌皿の餌が減っているのに気付いた。おはよう。南寿美子(麻生久美子)が朝食を用意する。夜中、猫が啼いていたと伝えると、深夜に帰って来て爪を研いで餌を食べ、台所に糞をして出て行ったと言う。昔は可愛かったのにね。年取るにつれてどんどん性格悪くなってる。ご飯は? 行ってくる。どこ行くの? 美術展。
奏介はバナナを囓りながら急な階段を下る。坂道に出ると良一がいた。奏介は駆け出し、良一に声をかけて追い抜く。良一が慌てて先輩を追いかける。2人が勢いよく道に飛び出すと、猛スピードで坂を下る赤い自転車にぶつかりそうになる。女性が急ブレーキをかけて自転車を停めた。ごめんなさい。サングラスをかけマスクをした女性は異様に長くツバの飛び出したサンバイザーを被っていた。海に出るならこの道を下っていけばいいのかな?
汐鳴市立中学校合同美術展。カワハギの絵や逆様の鏡餅など平面・立体を問わず様々な作品が並ぶ。小さな男の子が沢山のスプーンをアーチ状に組み合わせた彫刻に手を伸ばす。父親が触っちゃだめだと止めるが、作者の良一が触ってもいいですよと告げる。これは僕が曲げてきたスプーンを繋げたものです。男の子は作品に触れると何か感じたらしく、会場を飛び出して行ったす。父親がすいませんと謝り息子の後を追う。どうしたんだろう? 傍にいた奏介が呟く。僕の闇を感じ取っちゃったのかも。スプーン曲げると失神しちゃう。これ以上曲げたら寿命が縮むって母親に止められてるんだよね。本当の話? …何てね。何だよ! 麦藁帽子を被った紳士が奏介の作った古代生物の彫刻を熱心に眺めていた。昨年は恐竜を作っていたね。君の作品には批評がある。それが意味していることが分かるかな? 自由だよ。自由っていうのはね、好き放題に何でもすればいいってものじゃない。対話がいるんだ。君の作品には対話がある。私はこういう者だ。紳士は奏介にAという赤い文字が記された名刺を差し出した。
瀬戸内海に面する汐鳴市。中学3年生の南奏介(原田琥之佑)は、親戚の南寿美子(麻生久美子)と2人暮らし。夏休みに入ったが、美術部の奏介は、演劇部の直人(中西優太朗)と真帆(小野晴子)に依頼された舞台の背景幕を制作するため、後輩の立花良一(中須翔真)とともに登校している。市立中学校合同美術展に出した作品に造形力を見込まれ、美術商のA(諏訪敦彦)からは幕末の絵巻物の人魚を立体造形化するよう頼まれた。部のOBの高校生・梨本テルオ(蒼井旬)に人魚制作の助言を求める。何故か新聞部の平井ほのか(山﨑七海)に校内新聞の取材まで任された。
「長いツバの女」は、いかがわしい行商の高岡(高良健吾)とともに街に流れてきたヨーコ(唐田えりか)と、彼女に一目惚れする良一を中心とするエピソード。「夏の終りのミメーシス」は、寝たきりの老女すず(竜のり子)のため特殊メイクで亡き夫に成りすますテルオと、突堤でランチを提供する静香(坂井真紀)や「憩いの里」のケアマネージャー加納みゆき(舞)を取材する新聞部・平井ほのかを主に描く。「どこかへ穴でもできたのかい」は、芸術家・岡野ケン(村上淳)に惚れた不動産会社社員・谷川理沙子(剛力彩芽)と、理沙子の友人で債権回収代行に従事する大林メグ(菅原小春)とを軸に展開する。
(以下では、全篇について言及する。)
奏介を南寿美子は「奏介さん」と呼ぶ。寿美子は奏介の母親ではない(無論、息子にさん付けする母親がいない訳ではなかろうが)。何らかの理由で奏介に両親はいない(少なくとも同居していない)。奏介は、演劇部の直人・真帆から舞台の背景幕を、平井ほのかから編集会議や取材を、美術商のAから人魚のフィギュアを、債権者から追われる美術家・岡野ケンから穴の絵画を依頼され、いずれも断らずに応じている。自分を無条件で受け容れる肉親の不在が奏介に頼み事を断るという選択肢を失わせているようだ。
奏介は前回は恐竜を、今回は古代生物を市立中学校合同美術展に出展する。過去に存在した生物の想像による再現は、無意識にせよ、不在の両親に対する追慕とパラレルである。その切実さが美術商Aの目に留まるだけの作品を生み出させている。
美術商Aに依頼された人魚の立体造形化に当たり、先輩のテルオに助言を求める。対象の外見を表面的に写すのではなく、対象の成り立ちを理解して再現するのが芸術であり、人魚の制作については、人間が魚になろうとしているのか、魚が人間になろうとしているのか考えるよう促される。人魚は、奏介の母親になろうとする寿美子のメタファーと解される。母親そのものではないとしても、その心に信頼を置いている。それが、人魚の胸に隠された心臓によって表わされている。
人魚は、良一にとっては、(蟹を捕ろうとして落ちた)海から姿を現わしたヨーコである。良一はヨーコに目を奪われ、隠し撮りする。良一が手にするカメラは、祖父(中村シユン)が母(河井青葉)を隠し撮りしていたものである。良一は、義理の娘(良一の母)に劣情を抱く祖父を軽蔑しながら、祖父の性的な眼差しを受け継いでしまったのだ。性的に未成熟な良一は、性的欲求を闇として抱え込んでいる。
容姿端麗な高岡に魅惑されて、来歴のある庖丁を人々は買い求める。庖丁は使ううち、すぐに切れなくなる。実は最初から切れない庖丁なのであるが、最初は切れると信じ込んで使っているに過ぎない。庖丁は芸術作品を、庖丁を買い求める人々は鑑賞者を象徴する。来歴、機能(効果)、作者に囚われ、作品を見ようとはしていないのである。だから奏介の人魚が幕末のお宝が発見されたとか、奏介がテルオや良一と作ったオブジェは謎の生物を撃退したことが話題になるだけなのだ。
テルオがすずの亡き夫の姿に扮装(マスクを制作)すること、あるいは、加納が野外で施設入居者の老人たちに輪唱させることには、確かに過剰さがある。だが、常識の枠を超えた過剰さが無ければ奇蹟を生み出す力を持つこともまたありえない。あらゆるものごとを1つの物差しで測る必要はないのである。
黒猫は自由に振る舞うが、芸術ではない。芸術には、対話が無ければならない。対話によって、新たな世界を切り拓く穴を穿つことができる。