展覧会『深田桃子「透明≠不存在」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年9月1日~6日。
可及的に絞り込んだ太い線で仕切った面それぞれに単色を平坦に塗り込めた、デフォルメされた肖像画で構成される、深田桃子の個展。
展覧会のタイトルとして掲げられた「透明≠不存在」とは、現実には存在しない(=不存在)輪郭線が画面に表わされること、あるいは輪郭線を認識してしまう思考枠の透明性の謂であろう。
《遺棄か戯れ》(910mm×606mm)の赤い画面には、白いTシャツを着た男性の上半身を正面やや左前から捉えている。顔は右へ向けられ、左顔を見せる。左目や左耳の比率は頭部の面積に比して極めて小さい。輪郭を太く黒っぽい線で直線的に入れ、その線で区切られた中に肌を表わすペールオレンジや着衣の白を平坦に塗り込めてある。その太い描線はステンドグラス、デフォルメされた身体は浮世絵を想わせる。大胆な単純化されたイメージにおいて、首に点じられた小さな黒子の繊細さが目を惹く。心憎い演出である。男性は両脇に誰かの脚を抱え、その緑の靴下だけが覗く。プロレスごっこに興じているのか、あるいは死体を運んでいるのか。人物の無表情、相手の姿が足以外見えないこと、赤い背景を勘案すれば、ウジェーヌ・グラッセ(Eugène Grasset)の《硫酸魔[La Vitrioleuse]》よろしく、狂気が描かれるようである。
《低温着火》(1167mm×727mm)には、白い長袖のTシャツに山吹色の短パンという同じ出立の、同じ背格好の人物2人が身体の右側を下に並んで横たわる姿が、太い黒に近い輪郭線で表わされる。テントの入り口か、奥の山型の蔭に上半身を半ば入れつつ、下半身は表に出ている。左側の男性の左脚を右側の男性が両脚で挟み込み、なおかつ左手で触れている。「テント」は淡い黄緑色、人物の肌は緑、地面は淡い山吹色である。寒色の緑により明度を抑えつつ、近い色味の山吹色を添えて一体感を表現する。テントの穴へ半ば入れられた身体はセックスのメタファーであり、今にも行為に及びそうな状況を表わす。画面下端の長く引き延ばされた脚が、焦らす戯れを表象する。
《軽やかな無関心》(808mm×606mm)は、深緑の台、鶯色の壁の空間に、青いスニーカーを履いた人物が両脚を開いて立ち、その脚の間に顔を覗かせる青いジャージ姿の人物を描いた作品。黒いパンツの男性は通り過ぎようとしているところで、コンパスのように脚を前後に開く下半身と、垂らされた手首が見える。青いジャージの人物は、人物の立つ台に右腕を投げ出し、左肘を突いてぼんやりとしている。2人はそれぞれ別のステージにいて、道路の立体交差のように擦れ違う。青いジャージの人物の、前に差し出された右腕と後ろに反らされた左腕が、立ち去る人物に対する逡巡を表現している。
《客観とズレ》(803mm×530mm)は、格子の柄のタオルを首に掛け短パンだけを着用した人物――シンガーソングライターのLPを髣髴とさせる――が鏡を見詰める姿を描く。プールから上がった後か、シャワーを浴びた後か、あるいはトレーニングを終えた後か、短パンの人物は赤い肌に水(あるいは汗)を滴らせ、ぼさぼさになった頭髪に雫が付く。手前には半ば背中を見せて鏡を覗き込む姿、奥側、右にズレた位置に鏡像が映る。もっとも、鏡像としては腕の位置などにズレが見られる。青い作業着を身に付けた人物が格子縞の中に腕を伸ばす姿を描いた《archive》(910mm×606mm)もまた、左右に線対称として、すなわち鏡像として絵が着た作品と考えられる。そこでもまたズレが認められる。
《分かち合いか依存》には、組んだ腕に突っ伏す、限りなく黒に近い濃紺の服を着た人物と、その上に重なるように、もう1人の腕を組んで突っ伏す、黄色い十字を散らした白い長袖Tシャツを身に付けた人物とが描かれる。2人とも肌を赤で表わされている。2人とも組んだ頭に顔を載せているだけだが、2人が部分的に重ね合わされることで、プレッツェルのような複雑な形が浮かび上がる。
《不器用な交差》(910mm×652mm)のエメラルドの画面には、背後から相手の右腕に自分の右腕を絡ませる人物が描かれている。2人の頭部がそれぞれ左と右に傾き、なおかつ髪が傾いた方向に流れていること、また、腕を掴まれている人物の着用するジャージの2本線や腕を絡めている人物の袖の緑の縞が、彎曲しあるいは異なる方向に向くことで、画面に動きが生じる。
《未分類》(1620mm×970mm)は、(描かれていない)ベンチか枝に坐っていると思しき人物を青い画面に表わす。膝を曲げ、両脚の間に手を差し入れた人物は、後ろを振り返っている。黒に近い色の太い輪郭線で人物を表す点では他の作品と同じだが、木洩れ日を映したような模様が顔、上半身、太腿から膝頭にかけて描き入れられている点で異なる。見るとは対象からの光を受けることであり対象との同化であることが示されている。
(略)メルロ=ポンティは〔引用者補記:『見えるものと見えないもの』や『眼と精神』で〕画家アンドレ・マルシャンのつぎの言葉を好んで引いている。
森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしは内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。〔引用者註:『眼と精神』みすず書房、1966年、266頁〕
自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。(鷲田清一『現代思想の冒険者たち Select メルロ=ポンティ―可逆性』講談社/2003/p.272-273)
「能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転」の生じる「〈肉〉」こそ、作家の太い輪郭線ではなかろうか。《未分類》は、能動とも受動とも、内と外とも決定(分類)できない揺らぎとしての輪郭線そのものの擬人化であったのだ。