可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『侵蝕』

映画『侵蝕』を鑑賞しての備忘録
2025年、韓国製作。
112分。
監督・脚本は、キム・ヨジョン[김여정]とイ・ジョンチャン[이정찬]。
撮影は、キム・ドンヒョク[김동혁]。
照明は、ユン・インハン[윤인한]。
同時録音は、チェ・ドングン[최동근]。
音響は、イ・ギジュン[이기준]。
美術は、アン・ダヨン[안다영]、ユ・ヨンジョン[유영종]。
衣装は、パク・ユギョン[박유경]。
編集は、キム・ソンフン[김성훈]。
音楽は、イ・テヒョン[이태현]。
原題は、"침범"。

 

鼻歌を歌いながらキム・ソヒョン[기소유]が雪道を歩いている。川岸に出たソヒョンが川に向かって石を投げる。
ウジョン・スイミングスクール。イ・ヨンウン[이영은]が初心者に指導している。自ら水に潜って浮かび上がって見せる。水中での呼吸法は、鼻から息を出して、水から出たら全て一気に吐き出す。生徒たちがプールサイドに掴まりながら水に顔を浸けて息を吐く練習をするのを確認する。
ヨンウンが指導を終えて事務所に戻る。お疲れ様。自分の席について溜息を吐く。電話が鳴る。デスクでPCに向かう。ウジョン・スイミングスクールです。…私です。
ヨンウンが自宅のあるマンションの駐車場を走る。落ちたのかしら? 殴り着けたみたいだ。住人が何人か集まり話している。段ボールを被せられた犬の死骸の傍には、平然としたソヒョンの姿があった。
雪を被った森の中で飼い犬のチョロンの遺骸を燃やす。ソヒョン、何でママが悲しんでるか分かる? チョロンがしんだから。死んだら2度と会えないのよ。あたらしいいぬをかえるよ。またかってよ。買うことはできるわ。チョロンは家族だった。かぞくじゃない。チョロンはどうぶつだもん。動物でも一緒に食べたり寝たりすれば家族の一員なの。代わりがきかない存在があるの。ママにとって、あなたもそうよ。
台所で庖丁を洗う。棚にしまうと、南京錠をかける。ソヒョンの部屋を開けて様子を窺うと、ソヒョンはお絵描きをしていた。しんだらどこへいくの? 良いことをしたら天国へ、悪いことをしたら地獄へ。ならわたしもママもてんごくにはいけないね。ママといっしょならまあいいけど。迎えに行ったのに、何で1人で家に帰ったの? チョロンにあいたかったから。明日からは幼稚園の後、プールに来なさい。なんで? 泳ぎ方を覚えるためよ。泳いだ後で一緒に帰るの。みずはきらい。こわい。慣れるわよ。
ウジョン・スイミングスクール。ヨンウンが担当する子供向けのクラスにソヒョンが参加した。プールサイドに坐り水に入ろうとしないソヒョンをヨンウンが大丈夫だからと自分の身体に掴まらせて水の中に入らせる。身体を伸ばして腰を上げて足を動かし続けるの。ビート板を掴んだソヒョンがバタ足で少しずつ水を進んでいく。
ヨンウンがソヒョンと帰宅すると、駐車場で義母のパク・ジョンソク[길해연]が待っていた。
自宅でヨンウンが飲み物を用意する。離婚したいって息子が戻ってきてただ事じゃないって。気付かない私は鈍いわね。息子はソヒョンが病気だと。精神科にかかってるって言ってたわ。定期的に通院して良くなってきています。大概子供ってそんなものよ、だんだんと成長していくの。問題を起こすなら母親がその分愛情を注いであげるのよ。私から見たら孫は普通の子よ。正常な人でも精神病院に通ったら精神を病んでしまうんじゃない。そんなことしないで境界で牧師さんに会って見たら? 達磨の絵なんか飾るより教会へ行った方がいいわ。当分、私はあなたとここに住むわ。おばあちゃん! あら、起きてたの。義母はソヒョンを膝の上に坐らせてソヒョンの描いた絵を嬉しそうに眺める。
暗いプールに1人浮かぶヨンウン。プールサイドに上がる。腿や腕に切り傷がある。
通路でジヘ[최설아]の母親[염지영]が娘のバッグの中身を確認している。水中眼鏡は忘れずに入れた? 水着も水中眼鏡もあるわね。すごいわ。イ先生! ジヘがヨンウンに駆け寄り抱きつく。こんにちは。イ先生には感謝しています。引っ越したばかりでジヘは塞いでいたんです。水泳を始めてから表情が明るくなったんですよ。私が何かした訳ではなくて、ジヘちゃんが頑張ったんだよね? ジヘが頷く。建物の外ではガラス越しにソヒョンがジヘに抱きつかれる母親の姿を眺めていた。先生にもジヘと同い年の娘さんがいらっしゃるとか。ええ。そのとき、ヨンウンが外にいる娘に気付く。娘さん? ええ。手招きするとソヒョンがやって来る。こんにちは。娘のチョン・ジヘよ。お友達になってあげてね。ソヒョンはむっつり黙り込む。同い年なのよ。仲良くしなさい。ソヒョンが母親を見上げて黙る。妙な間が生じる。ソヒョンは笑顔を作る。こんにちは、わたし、キム・ソヒョン。こんにちは。およぐのはとくい? ううん、みずがこわい。わたしもいっしょ。みずがこわいの? うん。
プールを監視していたヨンウンが電話だと呼ばれる。
ソヒョンの通う幼稚園にヨンウンが駆け付ける。ソヒョンは1人お絵描きをして待っていた。
幼稚園の職員室。ヨンウンは園庭の監視カメラの映像を見せられる。シーソーの下に横たわる園児。怖い思いをしたと。ソヒョンは交替でやったと言っています。お母さんをお呼びしたのはソヒョンの危険な行為が初めてではないからです。そうですか。子供が怪我をさせられたという苦情が時々寄せられます。最初は先生の仕業かと思いました。そうではなくて私の娘が関わっていると。確認したところ、そう言えます。私どもと致しましては…。
駐車場。ヨンウンがバックミラーで後部座席のソヒョンを見る。ヨンウンが運転席を降りて後部座席に廻る。悪いことをしたら罰が当たると言ったでしょ。あなたのしたことのせいで幼稚園を移るしかなくなってしまったの。
ヨンウンがベッドでうとうとしていると、かつて睡眠中にソヒョンに太腿を切られた記憶が甦る。

 

ウジョン・スイミングスクールの水泳インストラクターを務めるイ・ヨンウン[이영은]は気の休まらない日々を送る。幼稚園に通う5歳の娘キム・ソヒョン[기소유]が加害行為を繰り返すからだ。ヨンウン自身、庖丁で足や腕を切られた。夫キム・ミンス[허지원]は娘を気味悪がってヨンウンと離別して家を出て行った。ヨンウンはソヒョンを精神科に通院させるが、飼い犬チョロンを部屋から駐車場に叩き落として殺害し、幼稚園では他の園児に加害を繰り返して転園を余儀なくされる。義母のパク・ジョンソク[길해연]はソヒョンの問題行動は愛情不足が原因だと教会で牧師に会うようヨンウンに勧める。ヨンウンはスイミングスクールのクラスにソヒョンを加えて監視するが、ソヒョンは同い年の生徒ジヘ[최설아]に加害に及ぶ。やむを得ず仕事中は倉庫に監禁することにしたが、ソヒョンは隙を突いて抜け出しジヘをプールに突き落としてしまう。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

ソヒョンがヨンウンの脚や腕を庖丁で切りつけたのは、ヨンウンの自らに対する愛情を確認するためである。何があっても失われない絶対的な愛を求める。飼い犬のチョロンを殺害したのも、ジヘを水に突き落としたのも、ヨンウンが自分以外の者に愛情を注ぐことを許さないからである。
ヨンウンはソヒョンを受け容れないミンスと離婚し、1人でソヒョンを育てることに決める。精神科に通わせ治療を試みる。だがソヒョンの他者加害は収まらず、母親であるヨンウンは厳しい目を向けられる。スイミングスクールの生徒でソヒョンの同い年のジヘに対する攻撃も一旦は庇おうとしたが、ソヒョンの行動はエスカレートしジヘをプールに突き落としてしまう。行方を眩ませたソヒョンは1人で自宅に帰っていたが、探そうとしなかったとヨンウンを詰る。ヨンウンに庖丁を向けたソヒョンに対し、ある決断を下す。

(以下では、後半の内容についても言及する。)

舞台は20年後に移る。キム・ミン(권유리))は母親の入院している精神病院を訪ねる。ミンがかつて自らを殺めようとした母親と面会することはない。ミンは、ハン社長[허정도]の特殊清掃会社で働き、社員のチェ・ヒョンギョン[신동미]の家に居候している。ヒョンギョンは実の娘が自死しており、ミンを娘のように可愛がる。新たにパク・ヘヨン[이설]が入社する。笑顔を絶やさない愛嬌のあるヘヨンはすぐにヒョンギョンとの距離を縮める。ミンは嫉妬を覚える。また妊娠を知った、かつての交際相手イ・ジュンソプ(유정후)はミンに子供を堕ろすよう迫る。
ヨンウンがソヒョンとともにウジョン・スイミングスクールのプールに沈む場面から、20年後、母親のいる精神病院を訪れるミンの姿に場面が切り替わる。入所しているのはヨンウンで、帽子を目深に被るミンがソヒョンと映る。物語の進行につれて、次第に状況が明らかになっていく、その構成が巧みである。

チョロンを荼毘に付すため、ヨンウンはソヒョンを伴い、雪の積もる森の中に向かう。凍てついた世界に佇む母娘の姿は、世間の厳しい眼差しを浴びる立場を象徴する。
ヨンウンが元夫ミンスと出かけるのが、ク・ギジョン[구기정]の個展「超越した風景[Exceeded Scenes]」であるが、そのタイトルは、本作が常識を超えた愛を描き出すことを暗示する。
冒頭、ソヒョンは雪の積もる川縁に向かい、川に向かって石を投げる。川からプールへと画面が移行し、そのプールからヨンウンが姿を表す。川は水泳インストラクターを務めるヨンウンの象徴である。その川に向かって一方的に石を投げるソヒョンの姿は、加害行為により母親の愛情を確かめるソヒョンのメタファーとなっている。
ソヒョンの愛情の冀求は炎として表現される。ソヒョンの炎に捲かれ、火傷し、命を落としていく。ソヒョンに言わせれば、痛苦の中にあるとき、人は正直になる。だからソヒョンは痛苦を求め、痛苦を与える。
ソヒョンの求める愛は絶対である。言わば定言命法として、愛を貫くことができるかどうかを問う。すなわち超越論哲学[Transzendentalphilosophie]のイマヌエル・カント[Immanuel Kant]の倫理学であり、制限を踏み越える(侵犯[침범]する)よう命じるのである。
ソヒョンの火とヨンウンの水とが、常識的な制限を踏み越えるか否かの鬩ぎ合いを象徴する。