可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 吉田花子個展(2025)

展覧会『吉田花子展』を鑑賞しての備忘録
Gallery Qにて、2025年9月1日~13日。

異なる時空との境界に立つ扉をモティーフにした厚みのあるメディウムによる壁面のような絵画「Doors」シリーズ11点で構成される、吉田花子の絵画展。

《Doors 2》(455mm×530mm)は、灰色や灰白、あるいは浅葱色や水色で落剥した壁らしきものの手前に、黄色い地面に立つ焦茶色の扉を描いた作品。画面下側4分の1程度をやや右上がりに黄色い色面が覆う。その中央左側には焦茶色の扉が開かれたが如く台形状に描かれる。その「扉」の下には、「扉」の形にそぐわないオレンジ色の影がある。これらはいずれも平滑に表現されている。それに対し、背景となる灰白色の壁は、経年劣化したように染みがあり、罅が入り、落剥し、浅葱色や水色、オレンジの下地にが露出している。汚れ、傷んだ古びたイメージは最前面を一番新しいものとせず、むしろ落剥の下に現われるのは未来であるかのようなアナクロニズムを錯覚させる。前景の幾何学的なモティーフは傾斜や彎曲、切れ込みなどにより直線・曲線の構成を回避して、動的あるいは有機的な印象を生む。その印象は、静的で無機的な「壁」と対照的である。
《Doors 4》(530mm×455mm)は、深緑の床に黄緑の扉が立つ。「扉」の背後には緑の壁があり、その左側には、浅葱色の水が染み出し、あるいはオレンジの黴が発生し、落剥した灰色の壁が覗く。「床」の左側には白い鉤状のモティーフが配される。「扉」は茶色い影を跨ぐように下部がアーチ状になっている。黄緑の「扉」と茶色い「影」と白い「光」とは、それぞれ現在、引き摺られた過去、まだ届かぬ未来の役回りで無言劇を演じる。そのとき「壁」もまた様々な時間の流れ込む模糊とした空間として立ち現われる。
《Doors 7》(606mm×727mm)には、クリームを中心に、オレンジ、ピンク、ゼニスブルーなどの色が露出する混沌としたイメージを背景に、クリーム色と水色とで分割された地面に深緑と浅緑の柱状の構造物が立つ。《Doors 8》(606mm×727mm)にもクリーム色と水色との地面に浅緑の構造物が描かれ、《Doors 7》の横に《Doors 8》を並べると、画面左端で線対称のような構図となる。
《Doors 9》(606mm×727mm)は、灰青の中に紫やオレンジ、緑などが覗き、その周囲を、浅緑、黄などが覆う壁面の手前に、くすんだ黄色の床と、深緑の台と赤紫の柱とで囲われたオレンジの空間が表わされる。画面右側に《Doors 9》と線対称のような構図の《Doors 10》(606mm×727mm)を並べると、《Doors 9》と《Doors 10》の中央にオレンジ色の光で包まれた、カーテンを脇に引いた舞台が姿を現わす。
《Doors 12》(910mm×727mm)は、画面に重ねられた黄、山吹、灰青、モスグリーン、ピンク、クリームなどの色面が削り出されて混沌とした画面となっている。《Doors 11》(910mm×727mm)も、クリーム、灰色、ピンク、黄、エメラルドグリーン、ベージュなどを重ねた画面が随所で削り出され、鮮やかなイメージを見せる。他の「Doors」シリーズでは背景となっていた壁が全面に展開されている。平面作品ではあるが、前景の幾何学的なイメージが取り払われたことで、漆芸のような工芸的な印象が高められている。《Doors 15》(727mm×910mm)では、黄、緑青、灰色などで構成される壁に、子供の落書きのような線が描き込まれ、壁に近づけられている。
《Doors 13》(727mm×910mm)は、灰色、ベージュ、浅葱、オレンジの混沌とした壁面の前景に、レモン、浅葱、黄土色の3つの幅の異なる帯を配し、さらに左端に藍色の三角形状の、右側に赤紫の四角形状のモティーフを置いている。枯山水の庭のような趣がある。

「Doors」シリーズの「壁」は厚みのある絵具の層が塗り重ねられ、コントロールされた落剥により様々な層が露出する。細部に目を凝らしていくと次々に新たな表情が見付かり、見飽きない。「壁」が表わすのは時間であり、全ての時間は現在と通じている。その結節点としての現在が「扉」である。SF作品に登場する「ポータル」と言えよう。そして、絵画自体が、過去と未来とが混淆した時間と邂逅するための「扉」だということを「Doors」シリーズは訴える。岡﨑乾二郞の作品についての次の評は、吉田花子の絵画「Doors」シリーズにそのまま当て嵌まるのではなかろうか。

 とくに、彫刻の粘土の運動がつくりだすひび割れ、ささくれ、裂け目、隆起や膨らみ、襞や折れ目などの細部は、それを見る者の眼を捉えて放さない。地殻の変動の予兆のように、このような細部こそが、そこから形が変容し生成する兆し、超嘔吐なって迫るのである。こうした作品の形態は、現在という時制に封じ込まれることなく、むしろ特定可能な時空や場を突破しようとする意志によってかたちづくられている。
 だから作品とは、過去といまだ到来していない未来とが交差し浸透する媒介的な場所である。(沢山遼「かつて、いつか、訪れる場所」『ユリイカ青土社/2025年7月臨時増刊号[第57巻第9号]/p.71)