可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 工藤麻紀子個展『わたしとみる』

展覧会『工藤麻紀子「わたしとみる」』を鑑賞しての備忘録
小山登美夫ギャラリー京橋にて、2025年8月27日~9月27日。

眼に映るものの中で心惹かれた場面を、そのとき湧き起こった心情を仮託した人物などとともに描き出すことで、「目にしたものをそのまま」の表現を追究する工藤麻紀子の個展。

《鈍い晴れ》(1940mm×2590mm)は、リンゴ農園の樹下に佇む少女と白鳥とを描いた作品。鈴生りのリンゴの木の棚の下にモンペ、デニムのパンツ、ピンクの長靴を履いたおかっぱの少女が立つ。その少女に向かって、林檎農園に接合された田んぼから首を伸ばす白鳥と見つめ合っている。彼女の立つのは地面ではなく、空であり、池である。雲が浮けば、水草も浮く。ピンク色の猫が少女達を尻目に何処かへ立ち去ろうとしている。白鳥のいる田んぼにはアヒルが数羽いて、農道が草むらや木々の間を蛇行しながら延びていく。
《ひるによる》(2273mm×1819mm)には、ダリア、ガーベラ、ポピーなど赤、ピンク、オレンジ、黄の花が咲き誇る中、椅子に坐り本を読む少女の姿が描かれる。画面上段のゼニスブルーを背にした上向きの植物群に対し、画面下段のインディゴを背に下に向かって咲く花々は水鏡のようである。画面に溶け込む群青の七分袖のTシャツに短パンを穿いた少女の上半身は上側に、下半身は下側に配される。岩波文庫に没頭している。
《わたしとみる》(1937mm×2590mm)は、膝までを水に浸して水面に映る自らの顔を眺める少女を描く。ハナズオウなど様々な木々やヨウシュヤマゴボウのよな雑草に囲まれた池に、少女は脚を浸している。顔が水面に触れるばかりに身体を折り曲げている。水面に映るのは彼女の顔ばかりではない。満月が映る。のみならず、彼女の傍らには小さな虹が架かる。
《山のおやつ》(1167mm×1169mm)には、沢に佇み、木の枝を抱えながら菓子を口にする少女の姿が表される。緑色の水が流れる渓流沿いは落ち葉で敷き詰められている。少女は青い長袖のパーカーに青いマフラーを巻き、「ハーベスト 香ばしセサミ」を無心で食べている。彼女が口にする1枚だけでなく、その顔の傍には別の1枚が浮いている。何層にも重ねた薄焼きクッキーは、舞い落ちる雪と同じくらい軽い食感なのだ。
《曇天公園》(1303mm×1620mm)には、ツツジなど剪定されて形を整えられた木々のの中に潜む少女を描いた作品。いずれもツツジなど園芸品種と思われる木々が丸く形を整えられているが、いずれも花は付いていない。他方、ツツジの花が乗り移ったように地面は鮮やかなピンクを呈している。暑い雨雲に覆われた空との対照で、その鮮やかさが際立つ。赤い髪をした少女が画面手前中央のツツジの中にぼんやりと浮かび上がる。ツツジの妖精だ。愛リボンをつけた人形らしきものが棒に挿して立ててあるが、何であるかは分からない。
アブラナカの》(911mm×1167mm)には、平屋の家屋の前に拡がるアブラナの花の咲き誇る庭に佇む少女が描かれる。奥に青い瓦屋根の家があり、手前に向かって拡がる庭には一面アブラナの黄色い花が咲いている。花々の中に、ニット帽を被った少女が顔を覗かせる。左右に洗濯紐に吊された洗濯物が、恰もステージの緞帳のように庭を覆う。

光と影、天と地、昼と夜、虚と実のように、作品の多くにおいて、対になる一方を見詰めるとき、他方に対する目配せがある。おそらくは作家には、作家と対になるイマジナリーな自分が存在し、それが「わたしとみる」所以なのだろう。また、花の重みで垂れ下がったミモザの花の写真と黄色い紙の少女の絵を組み合わせた《弘前の街路樹》(242mm×168mm)、や、テレビに映し出された犬と少女の足元の写真に少女の上半身を描き加えた《弘前の街路樹》(242mm×168mm)などから分かると通り、類推や連想に対する強い関心を示す。心惹かれた風景にまざまざとした実感を伝えるために必然的に選び取られたのがマジックリアリズムの手法であったのは必然であろう。