展覧会『髙橋桃「意識を象る」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー58にて、2025年9月8日~13日。
灰色がかった黄土色を基調とする模糊としたイメージの油彩画「意識を象る」シリーズ8点で構成される、髙橋桃の個展。
《意識を象る 1》(455mm×530mm)は、僅かに茶色がかった灰色の画面。濃霧によって何の姿も確認できないような世界が拡がる。下の層の色の違いから陰影がある他、平滑な画面だが異なる方向からのタッチが表情を生んでいる。《意識を象る 2》(1167mm×920mm)は、画面の周囲に青味や赤味のある暗い部分を配し、展示作品中一番暗い画面となっている。その分中央付近の明るさが感じられる。《意識を象る 3》(1167mm×920mm)は全体に白が配されて比較的明るい。部分的に粒状の絵具が残される。《意識を象る 4》(1167mm×920mm)は他作品に比べ赤味が強い。表面の処理は一番平滑である。《意識を象る 5》(1167mm×920mm)はペールオレンジに近いイメージで霧や靄よりもファンデーションや肌のイメージを想起させる。横長の画面の《意識を象る 6》(920mm×1167mm)は青味が強い灰色である。展示作品中最大画面の《意識を象る 7》(1303mm×970mm)は、上段は中央の青味のある暗い部分を黄味のある部分が囲み、下段は下側が赤味がかって暗い。
模糊としたイメージは《松林図屏風》を連想させる。但し、霧が濃くなり、もはや樹影を捉えられなくなったしまった世界である。それは世界は言葉によって分節されていない世界、現実界の表象である。
「窓を下ろしてくれ、シン」
彼女はそれに従い、それから激しく息を吸いこみ、悲鳴を呑みこんだ。かれも悲鳴を上げはしなかったが、そうしたいところだった。
開いた窓の外には、太陽の光もなく、警官の姿もなく、子供たちもおらず――何もなしだった。
生きているもののしるしなく、ただ灰色の形もない霧がゆっくりとうごめいているだけなのだ。その霧を通して町の姿は見えなかった。霧が濃すぎるからではなく――空虚そのものしか存在していなかったからなのだ。その中からなんの音も響いてこず、その中には何物も動いていなかった。(ロバート・A・ハインライ〔矢野徹他〕「ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業」同『輪廻の蛇』早川書房〔ハヤカワ文庫〕/2015/p.243)
「意識を象る」シリーズが表象するのは「ただ灰色の形もない霧」である。その向こうには何も見えない。「空虚そのものしか存在していな」いからだ。
(略)車の中にいる人にとって、外の現実は、ガラスが物質化しているバリアーあるいはスクリーンの向こう側にあるものとして、かすかに遠く感じられる。われわれは外的現実、つまり車の外の世界を、「もう1つの現実」として、つまり、車の中の現実とは直接的に連続していない、現実のもう1つの様相として、知覚する。この非連続性をよく物語っているのが、ふいに車窓を開け、外にある物がいきなり近くに感じられたときに味わう、外的現実が迫ってきたような不安感である。なぜ不安になるかといえば、窓ガラスが一種の保護膜として安全な距離に保っていたものが、じつはすぐ近くにあるのだということをいきなり思い知らされるからである。だが、車の中にいて、窓を閉め切っているときには、外にある物は、いわば、もう1つの様相へと転換されている。それらは根本的に「非現実的」に見える。いわばそれらの物の現実性が宙ぶらりんにされ、カッコに括られているように見える。早い話が、窓ガラスというスクリーンに投射された映画の中の現実みたいに見える。内部と外部を隔てる仕切り壁をめぐるこの現象学的体験、つまり外部は究極的には「虚構」であるという感覚が、ハインラインの小説の最後の場面のぞっとするような効果を生んでいるのである。一瞬、外的現実の「投射」の機能がストップして、われわれは、形のない灰色のもの、スクリーンの空無性と直面したような感覚を味わう。このコンテクストでマラルメを引用するのは冒瀆かもしれないが、それが許されるとしたら、その空無性とは、まさに「場所以外の何も起こらない場所」である。(スラヴォイ・ジジェク〔鈴木晶〕『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』青土社/1995/p.40-41)
「ただ灰色の形もない霧」、現実界に向き合わせるのが、「意識を象る」シリーズの狙いである。