展覧会『髙田安規子・政子「Perspectives この世界の捉え方」』を鑑賞しての備忘録
資生堂ギャラリーにて、2025年8月26日~12月7日。
易経の一節「至哉坤元 万物資生」を発想の起点として、誕生以来多様化・複雑化を繰り返す生命、生命を生み出した地球、さらには生命を活かすエネルギーを供給する太陽にまで目を向けさせる作品で構成される、美術ユニット髙田安規子・政子の個展。
すべての生き物はある意味で、形態から形態、主体から主体、実存から実存へとうつろい続けるような1つの同じ身体、同じ生、同じ自己である。この同じ生とは惑星を生気づける生であり、惑星もまた生まれ、既存のコール〔身体=天体〕――太陽――から逃れ、45億年前に物質的なメタモルフォーゼによって生み出された。わたしたちはみなその小片であり、閃光である。先行する数えきれぬ存在のなかで生がなしたこととは別の仕方で生きようとする、天体的物質でありエネルギーである。しかしながら、この共通の起源―より適切に言えば、わたしたちが地球の肉と太陽の光、つまり「わたし」と言う新しい仕方を再発明する肉と光るであるということ――は、わたしたちにただ1つの同一性を強いるわけではない。反対に、より深くて親密な親縁性)わたしたちは地球と太陽であり、それらの身体、生である)のゆえにこそ、わたしたちは絶えず自分の本性と同一性とを否認するよう定められており、そららを新たなものへと手を加えるよう強いられている。差異はけっして自然ではなく、運命と責務である。わたしたちは互いに異なったものになる義務を、自分をメタモルフォーゼする義務を負っているのである。(エマヌエーレ・コッチャ〔松葉類・宇佐美達朗〕『メタモルフォーゼの哲学』勁草書房/2022/p,22)
正六角形の棚に植物図鑑・動物図鑑など生物学を始めとする書籍と、図譜や化石を配した《Strata》、人類の誕生頃に形成された花崗岩を砕き砂時計の砂に見立て時の経過やエントロピー増大を表わした《timepiece》、9つのベッドの小さい方から大きい方へ赤、ピンク、オレンジ、黄、黄緑、水色、青、紫のカバーをかけて並べ可視光スペクトルを表わした《Spectrum》、電磁波である光が電場と磁場とに影響されながら伝わる様子を表わしたパッチワークキルトの壁掛け《Electromagnetic wave》、217枚の様々な種類の鏡を壁面に並べて鑑賞者のイメージを断片化、複数化させる《Relation of the parts to the whole》を始め、全17点の作品を地下の広大な空間に展開している。
ハンドアウト掲載の作家の自作解説が興味を搔き立てる。例えば、赤味を帯びたクリーム色の画面に白く地球の公転や見かけ上の太陽の位置などの図が浮き出る「Ultra-violet ray drawing」シリーズは、ステンシルを載せて太陽光に晒した更紙に求めるようなイメージが得られず仕舞いだったが、10年寝かせた結果、紫外線による変色が起き鮮明な図像が得られたものだという。
グリーティングカードに描かれた雪の結晶のフラクタル構造に着目し雪の結晶を増殖するように描き加えた《Snow crystal》は、可視光線スペクトラムを表わす大小のベッドを大きさ順に並べた《Spectrum》とともに、入れ籠の作品である。入れ籠の関係は、無限を連想させる。
つまり、唯識のいう「種」(種子)とは、有限の物質的な区別を可能にする元素(元素にして粒子である「極微」)ではなく、そうした元素における区別そのものを生み出す、ただ理念的にしか区別されない、根源的な差異を意味している。そう理解しなければならない。物質的な基盤をもたない理念的な区別であるがゆえ、定義上、その区別は有限のものではなく無限のものとなる。有限の区別は原子(「極微」)で終わってしまうが、無限の区別は、その底がない。あるいは、その底を見出すことができない。つまり、無限は、無限に深めていくことが可能なのである。(安藤礼二『空海』講談社/2025/p.12-13)
217枚の鏡で構成される《Relation of the parts of the whole》は鑑賞者を複数化させる。
(略)無限の法身も有限のこの「私」も、「六大」を基盤としていることによって、その「六大」から物質的かつ精神的に創り上げられていることによって、互いに等しいのだ。そのことは「法身」と「私」の関係だけでなく、「法身」と森羅万象あらゆるものとの関係すべてにあてはまる。この「私」は無限の自然がとる1つの固有の表現であり、逆に言えば、無限の自然はこの「私」によって表現されることによってはじめて固有の存在性を得る。新たな生命が生み落とされるということは、無限の上にさらに無限が、存在の上にさらに存在が重なり合うことである。無限が無限によって豊かになる、存在が存在によって豊かになる。ただ、その点においてのみ、この「私」がいまこおにある意味がある。「私」とは「法身」の表現なのだ。(安藤礼二『空海』講談社/2025/p.23)
無論、鏡に映るのは、私だけではない。
空海のなかに否定性は存在しない。(略)物質と精神を区別せず、人間を中心とした世界を考えない。生命も非生命も森羅万象ありとあらゆるものが1つにつながり合った世界を提示してくれる。「私」の根源を探ることが「自然」の根源を探ることであり、その根底に見出される重重無限に重なり合った関係性、そのダイナミックなネットワーク(インドラの網)こそが世界の真実であると教えてくれる。「私」は「私」として自由に自立しながらも、自己のなかに閉じ籠もるのではなく、外へと、無限の他者へとひらかれている。他者とは有限の人間だけに限られない。無限の法身も、さまざまな動物たち植物たちにも、巨大な鉱物たちにも、生命をもたないとされる微小な「もの」たちにも、森羅万象あらゆるものに向けて、すなわち広義の自然全体に向けて、ひらかれている。「私」は無限の他者とともにある。(安藤礼二『空海』講談社/2025/p.18)
「『私』は無限の他者とともにある」というメッセージを受け取る展観であった。