展覧会『アートアワードトーキョー丸の内 2025』を鑑賞しての備忘録
行幸地下ギャラリーにて、2025年9月8日~23日。
若手美術家の発掘・育成を目的に、美術大学・大学院の卒業・修了制作展から選りすぐった作品を展示する企画。19回目を迎える今回は、18校の146点から選抜された20点を展示する。
グランプリを受賞した相波エリカ《serious and unimportant》は、3つの絵画と1つのオブジェとで構成される。左の画面には、山を望む荒寥とした大地の片隅に立つ小屋の前に青いピックアップトラックが駐まり、そのボンネット上に群れる多数の鴨やペリカンが描かれる。敷地の境界を示すらしい網を張った柵の向こうに拡がる曠野には、枘のように矩形の切れ込みを入れた柱がいくつも立てられている。それらのオブジェが何かは不明だが、絵画の前には同種のオブジェが実際に設置され、作品の内部と外部とを繋いでいる。中央の画面には、手前から奥へと続く通路の脇に毛皮で覆われた舞台が描かれる。毛皮の上でペリカンを抱いて眠る男性の腰には蛇が捲き付く。舞台は、鉄塔や建物、木立などの中に裸の男性が地面に膝を突いる書割によって全面を塞がれ、舞台に立つ女性が書割に描かれた男性に向かい合うように立っている。彼女は、通路沿いの壁面の作品を眺める現実の鑑賞者の似姿でもある。画面の左には、積み上げた箱の上に酒瓶を載せたイメージや、書割(あるいは舞台)を支える木材が組み合わされ、現実の行幸地下通りから絵画内の通路へ通じる騙し絵を演出している。右側の画面には、クッション、家具、照明、電化製品などが土砂に呑み込まれる様が描かれる。厄災による日常の崩壊ないし喪失の表現である。現実は次の瞬間には崩れ去る可能性がある。脆弱な現実から眼を背けるために次々と追い立てられるように虚構が生み出される。現実を構成する虚構ではなく、曠野という現実へと鑑賞者に眼を向けさせる作品である。
Deloitte Private賞を授けられた、中村夏野《虫であり花でありそのどちらでもない #1》は、中央の赤い部分から線対称にクリーム色の羽根あるいは花弁を6枚伸ばす蝶あるいは花を、薄いピンク色を背景に描いたと思しきアクリル絵画。中央部分の上方から突き出すのは蝶の触角のようであり、花の雄蕊のようでもある。また、中央部分の下方のギザギザは蝶の腹部でも花の雌蕊でもあり得る。もっとも、ルネ・マグリット(René Magritte)がパイプを描きつつ「これはパイプではない。[Ceci n'est pas une pipe.]」と書き込んだ《イメージの裏切り[La trahison des images]》よろしく、「蝶」ないし「花」はキャンヴァスに塗られたアクリル絵具であり、蝶でも花でもない。《虫であり花でありそのどちらでもない #2》には、蝶ないし花のモティーフが朱色で描かれ、その周囲に極淡い緑、紫、青がうっすらと拡がっている。中央部分の「腹」の部分が二股に分かれていることや、モティーフがより鮮明に表わされていることなどを除けば《虫であり花でありそのどちらでもない #1》に類した作品である。但し、《虫であり花でありそのどちらでもない #2》はターポリンにデジタル印刷したものである。2点は左右に並んでいるが、通りすがりに一見したところでアクリル絵画か印刷物かの区別はつかないだろう。昆虫に擬態する蘭のようではないか。ディスプレイを介したイメージの占める割合が高い現代人を揶揄する仕掛けである。大きな画面にシンプルなモティーフは、広い地下通路の壁面で視認性が高く、川端龍子の唱えた会場芸術を想起させる。
夏山大成《Takotsubo》は、頭部とマグカップ、カーテンを出入りする2人の人物、水辺のアヒルと植物、闇の中に浮かぶ人物、右後方から捉えた頭部、木々の中に浮かぶ雲、の大小6点の絵画で構成される。左端は、白く塗り込めた画面の中央上部附近にシルエットに近い頭部と、画面右下に赤いマグカップを描いた作品。白が示す「空」の中に頭部とマグカップを繋げる身体の存在を想起させる。人物とマグカップの飲み物の象徴する目的との距離をどうやって縮めるか、人物にマグカップの珈琲を飲ませよという公案とも解される。その隣の画面には、右端に垂れる金色のカーテンに向かい背を直角に曲げた人物が歩いて行くとともに、後景では背筋を伸ばした人物がカーテンから出て行く場面が描かれる。前景のシルエットで表わされた背を曲げた人物のデフォルメと朱色の背景からはフランシス・ベーコン[Francis Bacon]の描く世界を静謐にしたような印象を受ける。なにもない空間=舞台に現われ去る人の姿は、人生のメタファーであろう。最大画面の水辺の絵では、中央にアヒルが浮かぶ。アヒルの向かう先に水面から1本植物が茎を伸ばし、3枚の葉を拡げる。茎が水面に映る。雲のかかる空と水面との境は判然としない。空と海、アヒルと植物、多即一である。水辺の絵と同じサイズの闇の絵では、右端に崖が姿を見せる。崖は下の方が窄まり、上部が左側に貼り出している。その崖の形をなぞるように、頭を前に倒した裸体の人物が宙空に浮かび、その足は闇に溶けて見えない。炎にも月にも見える光が上部に輝く。『月映』の世界を想起させる、内省的な作品である。頭部を右後ろから描いた作品は、顔の前に白い靄のようなものがかかる。白いカーテンかもしれない。その向こうには、灰色の壁に青空を覗かせる四角い窓がある。頭部の作品の右側には、やや高い位置に木の間に流れる雲の絵が置かれる。内省は、空を見上げ、宇宙を捉えることへと通じる。Takotsuboとは壺中の天、ミクロコスモスとマクロコスモスとの照応である。