展覧会『アートアワードトーキョー丸の内 2025 サテライト展』を鑑賞しての備忘録
三菱一号館美術館 Espace 1894にて、2025年9月8日~23日。
若手美術家の発掘・育成を目的に、美術大学・大学院の卒業・修了制作展から選りすぐった作品を展示する企画「アートアワードトーキョー丸の内[AATM]」。19回目となる「AATM 2025」の関連企画として、2007年の第一回展に参加した作家から、薄久保香(AATM2025ゲスト審査員)と谷口真人の作品展を展観する。
谷口真人《You found me(through the window)》(798mm×680mm×161mm)は、底に鏡を張った箱に、アニメーションキャラクターのような少女の顔を描いた透明のアクリルボードを被せることで、描かれたイメージとその鏡像とを同時に見えるようにした作品。無題の他の3点(各938mm×778mm×182mm)も、少女の顔は異なるものの、同様の構造を持つ。鏡に映るのは、アクリルボードに描画された面であり、アクリルボードのイメージは背面から捉えていることになる。現実の把握が、少なからずスマートフォン、PC、テレビなど箱のディスプレイ越し(映像)により行われている状況を象徴する。
薄久保香《dance of the bulbs》(420mm×420mm)は、正方形の板に貼り付けた黒く縫ったキャンヴァスから、球根から生えた植物の形などを切り出し、改めて貼り付けた作品。球根から生えた茎から伸びるギザギザの葉の黒いイメージが、キャンヴァスを剝がされ剥き出しになった板の木目、あるいは裏返しのキャンヴァスの断片の中に配される。切り絵というと――"dance"というタイトルも相俟って――アンリ・マティス[Henri Matisse]の鮮やかな作品が想起されるが、本作は黒と白に塗られたキャンヴァス、その裏地(キャンヴァスの生地)、茶色い板で構成され、むしろクルト・シュヴィッタース[Kurt Schwitters]のコラージュ作品に近しい。地中から表土を突き抜けて芽を出す植物の力を、画布を切り裂いて表現しているのだろうか。また、裏返された画布に暗示される地中と地上との反転は、関根伸夫の《位相-大地》に通じよう。
薄久保香《the muse and the fallen》(1940mm×1620mm)は、女性の写実的な胸像に満月や植物のイメージをコラージュしたように描き出したモノクローム絵画である。ノースリーブを身につけた女性は左に顔を向ける。右目辺りに満月が位置する画像が重ねられ、彼女の両目を隠す。画像の先は鋭く尖り、視線の方向を暗示する。胸にメタリックな葉を持つ枝を持つ(あるいは飾られている)。彼女の右側は真っ直ぐに伸びる幹とそこから出た枝を摘まむ女性の手の画像が組み合わされている。空に懸かる満月は芸術の神ムーサのメタファーであろう。女性の目の位置に満月が配されるのは、彼女がムーサの化身であることを表わすのであろうか。枝に触れる指は弦を爪弾くようにも見える。月が上昇するように、人間も芸術を介して自らを大地からを解き放つことができるだろう。
薄久保香《the configuration―束の間の間―2017》(420mm×420mm)は、バラバラにされた木枠に切れ込みを入れた画布を絡ませたイメージのモノクローム絵画。中央に支柱のとなる木枠が垂直に立ち、そこにL字状などの額縁の断片が組み合わされる。その構造体に、真っ直ぐや彎曲で鋏を入れられて不定形の帯状になった画布が掛けられている。細くなった画布にはナニワイバラと思しき花が描かれている。天災その他の原因によりインフラやシステムが崩壊してしまった社会を木枠と画布とは表象している。それでも蔓を伸ばし見事な花を咲かせるナニワイバラ(?)に、カタストロフの後にも逞しく生きる姿を象徴させているのかもしれない。
たとえば、日本でもっとも息長くラディカルな芸術創作を持続した〝脱構築〟の彫刻家、斎藤義重について少し考えてみよう。その創作上の原点については、すでに〔引用者補記:関東〕大震災前の1920年、まだ16歳だった斎藤が、欧米からの前衛の使者、ブルリュークやパリモフによるロシア未来派の展示風景を観て、大きな衝撃を受けたことがしばしば指摘されている。けれども、斎藤が同じく強い関心を寄せたマヴォからバラック装飾社に至る大正ダダイズムが、実際には関東大震災の焼け跡とともにあったことの意味はもっと真剣に考えられてよい。もっとも、文章を漁るかぎり、斎藤が具体的に震災に言及したものは見当たらない。けれども、斎藤のダダ受容に、震災による一瞬にしての都市の消滅と、そこから立ち上がるバラック的な仮設性があったことは、あきらかなことのように思われる。
なにも斎藤の作品の特質が、震災や空襲の焼け跡を再現する、ある種の「具象」性にあるなどといいたいわけではない。そうではなく、彼の作品が、地中に火の脈を持ち、宿命的に構築的な永続性を持ち得ない日本列島という自然条件と、そこでの経験や絶望のなかから生まれたとう意味を、批評的に無視できないということなのだ。(椹木野衣『戦争と万博』講談社〔講談社学術文庫〕/2025/p.189-190)
2015年作の《the configuration―束の間の間―2017》と2025年作の《dance of the bulbs》とには、変わることなく、文明ないし人間存在の儚さと対照的な自然の営為に対する畏敬が表現される。《the muse and the fallen》は芸術が人智を超えた自然に対し瞠目するよう促すのである。