可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 フォースター『ハワーズ・エンド』

エドワード・モーガン・フォースター『ハワーズ・エンド』〔光文社古典新訳文庫K-Aフ15-2〕光文社(2025)を読了しての備忘録
Edward Morgan Forster, 1910, "Howards End"
浦野郁訳

三十路を控えるマーガレット・シュレーゲルは、21歳の妹ヘレン、16歳の弟ティビーとともにロンドンのウィカムプレイスにある両親の遺した家に暮らす。母メアリーはティビーを産んで亡くなり、5年後にはドイツ出身の父親エルンストも亡くなった。ドイツ旅行の際、シュパイアーで知り合った遣手の実業家ヘンリー・ウィルコックス家のハワーズ・エンドにある屋敷を訪れていたヘレンから、次男ポールと恋に落ちたと手紙が届いた。姪・甥の後見役を自認するマント夫人はヘレンを連れ戻そうと汽車に飛び乗る。マント夫人をキングスクロス駅まで見送ったマーガレットは帰宅してヘレンから全て終わったとの手紙を目にしたが時既に遅し。ハワーズ・エンド最寄りのヒルトン駅で偶然居合わせたウィルコックス家の長男チャールズが「若い方」と名乗ったことから次男ポールと勘違いしたマント夫人はヘレンの恋愛、両家の家格を巡り言い争いになる。マント夫人を迎えたウィルコックス夫人は当事者を引き離し揉め事を回避する。

 夫人はヘレンの手紙にあった通り、服の長い裾を引いて芝生の上を音もなく近づいてきた。本当に手には牧草を1束持っている。夫人はここにいる2人の青年や自動車よりも、家やその上に影を投げかける楡の木の仲間という印象を与えた。過去を大切にしていて、過去だけが授けることのできる直観的な知恵を持っているようだ。そのような知恵は「貴族的なもの」とでも呼ぶしかないだろう。夫人は高貴な生まれではないかもしれないが、自分の祖先をしっかりと心にかけ、彼らに助けられていた。チャールズが怒り、ポールは怯え、マント夫人が涙しているのを見たとき、夫人には祖先の声がこう言うのが聞こえた。「お互いをひどく傷つけ合おうとしているこの人間たちを引き離しなさい。他のことは後回しで良いのです」そこでウィルコックス夫人は何も問いただしたりせず、社交に長けたホステス(女主人)のごとく何事もなかったかのように振る舞うこともしなかった。「ミス・シュレーゲル、叔母様をあなたかわたしの部屋、どちらでも良いと思う方へ案内して差し上げて。ポール、イーヴィーには昼食は6人分をお願い、と伝えてきて。皆さん1階で召し上がるかどうかは分かりませんけれど」皆が夫人の指図に従っていなくなると、まだエンジンが掛かったまま、油っぽい匂いをまき散らす車の脇に突っ立っているチャールズに向き直った。そして優しく微笑むと、何も言わずまた庭の花を見やった。(E.M.フォースター〔浦野郁〕『ハワーズ・エンド』光文社〔光文社古典新訳文庫/2025/p.46)

ウィルコックス夫人は、チャールズのドリーとの結婚やポールのナイジェリア出立の準備のため、ヘンリーのいとこがロンドンに所有する部屋に滞在する。それはシュレーゲル家の向かいの建物だった。

 マーガレットとウィルコックス夫人の友情は、ことあと急速に発展して何とも思いがけない結果を生むことになるが、その年の春にシュパイアーで出会った時に実はもう始まっていたのかもしれない。おそらくこの年配の女性は、俗っぽく嫌らしい大聖堂を見て回り、自分の夫とヘレンのおしゃべりを聴きながら、姉妹のうち魅力に欠けるマーガレットの方に、より深く相手に共感する力と、より健全な判断力が備わっていると感じたのだろう。夫人にはこうした性質が分かるのだ。シュレーゲル姉妹をハワーズ・エンドに招こうと思ったのは夫人だったのかもしれないし、特にマーガレットに来てもらいたいと思っていたのかもしれない。こうしたことは全て憶測で、本人ははっきりしたことは何も言い残していない。(E.M.フォースター〔浦野郁〕『ハワーズ・エンド』光文社〔光文社古典新訳文庫/2025/p.128)

ウィルコックス夫人が「より深く相手に共感する力と、より健全な判断力が備わっている」と判断するマーガレットの能力は少女時代に育まれた。亡父エルンスト・シュレーゲルは「金は一番役に立つ、知性はまあまあ役に立つ、想像力は全く役に立たない」と「実用的なものばかり大事に」する物質主義に染まってしまったドイツ帝国に厭気が差し、イギリスの地方大学に職を得、裕福な妻エミリーと結婚する。ドイツの父方の親族とイギリスの母方の親族との話を聞いてマーガレットは育つことになったためである。

 (略)「神様はイギリスとドイツのついてのご自分のお考えが分からないか、わたしたちが神様のお考えを理解していないか、そのどちらかに思えるわ」何とも小憎らしい子どもだが、マーガレットは13歳にしてほとんどの人が気づかず見すごしてしまう矛盾に気がついたのである。彼女の頭脳はあれこれ思いを巡らすことで、柔軟で強くなっていった。そして組織ではなく1人1人の人間こそが目に見えない真実に一番近いところにいる、という結論に達し、この信念は決して揺らぐことがなかった。(E.M.フォースター〔浦野郁〕『ハワーズ・エンド』光文社〔光文社古典新訳文庫/2025/p.61-62)

マーガレットは家族や階級の色眼鏡で人を判断することはない。だから父が嫌った帝国主義を象徴する実業家ヘンリーを受け容れることもできるのである。

マーガレットがヘンリーの娘イーヴィーの結婚式にオニトンに向かう途中、自動車が猫を轢いた。マーガレットは猫の飼主のもとに行こうとしてチャールズら男たちに反対され、車から飛び降りまでするが叶わない。

 (略)男性陣がまたマーガレットを取り囲み、何かお手伝いできることはないかと言ってきて、エドサー夫人は手の怪我に包帯を巻いてくれた。マーガレットはとうとう諦め、小声で詫びながら車に連れ戻され、周囲の風景はすぐまた動き始めた。ぽつんと立っている例の小屋は視界から消え、芝生に囲まれた城が近づいてきて、一行は到着した。自分が恥をかいたのは間違いない。だがロンドンからここまでの旅路は全て、どこか非現実的な感じがした。この連れの一行は大地や、大地に根差した感情とは縁がないのだ。自分たちは大地の上を舞う塵か悪臭のようなもので、猫を殺されたあの少女の方がより深く生きているのではないだろうか。(E.M.フォースター〔浦野郁〕『ハワーズ・エンド』光文社〔光文社古典新訳文庫/2025/p.424-425)

マーガレットはイギリス=島とドイツ=大陸との2つの思想を受け継ぐだけでなく、大地に根差した感情を有している。「過去を大切にしていて、過去だけが授けることのできる直観的な知恵を持っている」「楡の木の仲間」のようなウィルコックス夫人がマーガレットに見出したのは共感力と判断力だけでなく、「大地に根差した感情」であった。だが大地との結び付きは文明の坩堝により呑み込まれ急速に失われつつある。

 「サリー州もそうだし、最近はハンプシャーだってそうね」とヘレンは続けた。「パーベックの丘から見たら分かるわ。それにロンドンも別な何かの一部に過ぎないんじゃないかと思うの。世界中で、形のある生活というものが溶けてなくなろうとしているみたい」
 マーガレットには、妹の言っていることが正しいと分かっていた。ハワーズ・エンド、オニトン、パーベック丘陵、ドイツのオーデル山脈のような場所は生き残りで、そういう場所を飲みこんでいくるつぼが着々と準備されているのだ。理屈の上では、これらの場所には生き残る権利がないことになる。でもその理屈の方が間違っていることを期待してはいけないだろうか。こうした場所では大地が時を刻んでいるのではないか?
 「ある傾向が今強まっているからといって、それがずっと続くとは限らないわ」とヘレンが言った。「狂ったような移動の文化が生まれたのはせいぜいこの100年くらいでしょう。この後には動き回らずに大地に根を下ろす文化が出てくるかもしれないわ。それに反する兆候ばかり目に付くけれど、そう願わずにはいられないの。早朝にこの庭に出ていると、ハワーズ・エンドは過去であり、未来でもあるという気がしてくるのよ」(E.M.フォースター〔浦野郁〕『ハワーズ・エンド』光文社〔光文社古典新訳文庫/2025/p.675-676)

ハワーズ・エンドの地霊の化身ウィルコックス夫人と、彼女の魂の継承者となるマーガレットの物語は、すなわちハワーズ・エンドが象徴する大地に根を下ろす文化、想像力の物語であり、過去の物語であるとともに未来の物語でもある。