展覧会『熊谷亜莉沙「天国泥棒」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー小柳にて、2025年8月23日~10月11日。
油彩画6点と別室のドローイング連作「Pool side」12点とで構成される、熊谷亜莉沙の個展。配布されるハンドアウトに作家が個々の作品に纏わるコメントを寄せている。
《It's OK. It's OK. It's OK.》は、花を活けたガラスの花瓶を中心に複数の花の鉢植えなどが並ぶ、背後にマリア像を設えた祭壇を描いた大画面(1090mm1450mm)と、ナイキのジョーダンシリーズの子供靴を描いた左右の小画面(各335mm×222mm)から成る三幅対的作品。供えられた花々を中心に切り取った中央の画面では、マリア像は足元の部分、すなわちぶら下がる十字架や、白いローブの裾だけが見える。何故か。恐らくは白いドレープを翼に見立て、有翼で表される勝利の女神ニケ[Nike]を想起させ、ナイキ(Nike)のシューズとの結び付きを生むためであろう。フィンセント・ファン・ゴッホ[Vincent van Gogh]の描いた靴ほどは草臥れていないが、使い古した子供用のスニーカーは、幼く弱き虐げられる者たちを象徴する。いつの日か子供たちがマイケル・ジョーダン[Michael Jordan]よろしく勇躍し勝利することを祈念する絵画である。
《Say yes to me》は、狩猟後屠る前に川に晒される仔鹿の右画面(970mm×1950mm)とネイティヴアメリカンの集落がデザインされたシャツを着る老人の背中を表した左画面(970mm×1950mm)とが闇で繋がる一対の絵画。仔鹿は右側を底の側にして流れに沈んでいる。頭部は既に切断されているらしく、胸の辺りの毛には血が付着している。此岸と彼岸との境界を象徴する川において生者は死に触れる。画面左側は底の見えない真っ暗な水で、闇の中で背中を向けて坐る老人へと連なる。馬ともにテントの集落に暮らすネイティヴアメリカンの姿が描かれた山吹色のシャツの背の中央には毛皮を着こみ銃を手にする白髪の老人の姿がある。老人の背に老人という入れ籠の関係により、シャツを着る老人もまた皮を纏う。そして、闇という川の中にいることで、老人はまた仔鹿ともなる。
猟の本質とは、人間と獲物のあいだの関係性にある。猟が示しているのは、大集団をなした人間社会の生活から離れ、ひとりで、あるいは、ごく少人数で動物と対峙することである。(略)
狩猟者が獲物と近いのは二重の意味においてである。ひとつは獲物を捕るには、獲物と狩猟者が共に生きている環境を熟知し、獲物の意思を理解し、その行動を模倣してみなければならないからである。猟とは、いかに獲物に近付くかにかかっている。(略)
(略)
しかし、猟における自然との一体感は、周囲の環境から目立たないようにし、獲物になったつもりでその行動を理解するということだけではない。猟は、自分の食を得るためのものである。食べることによって猟師は、獲物と近づき、獲物を生み出した自然の一部となる。(略)
(略)
猟は獲物を食べるために捕る。捕った動物を食べるのは、道徳的責務ですらある。殺した獲物を食べないのでは、獲物も狩猟者も生の意味を失うからだ。しかし食べられるのは動物の方とは限らない。相手がクマのような肉食獣であれば、人間が逆に獲物になる可能性もある。かりに草食獣であれ、大型であれば人間を殺傷できる力で攻撃を加えてくる。そして、獲物を捕らえ損ねれば、ウィルダネスでは飢餓が近づく。狩猟者と獲物は可逆的な関係にある。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.87-90)
《we're》(210mm×298mm)は闇の中に浮かぶ萎れた花と、闇の中の蕾を描いた同題作品《we're》(210mm×298mm)との対の作品。既に盛りを過ぎた花とこれから花を開こうとする蕾の対照である。しかし、全ては死に向かいつつある。闇=死の深さが生を輝かせる。
《Forgive me,》は、闇の中に炎を上げ火の粉を散らす薪の画面(1450mm×1090mm)と、公園の木立の中で輝く街灯の画面(275mm×220mm)とで構成される。作家のキアロスクーロとキリスト教の世界は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール[Georges de La Tour]の作品に通じる。画題"Forgive me,"は悔悛を連想させ、なおかつカンマの後の省略により余韻を残すことから、炎や灯火をジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマグダラのマリアの留守模様と捉え鑑賞者に観想を促す作品と捉えられる。
《Please,》(970mm×195mm)は闇の中に浮かぶ有翼の男性の大理石像。仰け反る姿は堕天使のようである。だが堕天使がかつて天使であったように、世界は容易に反転する。ならば闇を光に変えるチャンスもあろう。羊飼いの少年ダヴィデが巨人ゴリアテを倒すことができるように、力の弱い存在=子供が巨大な力を持つ存在=大人に抵抗することは可能である。