展覧会『中町優作個展「モナドの窓」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2025年10月13日~18日。
「人生とは、絵画とは、窓のない密室であり壮大なオルゴールである」とする中町優作の絵画展。
《line of sight》(920mm×727mm)の画面は、黒、白、ベージュ、朱、ペールオレンジののた打つ線で埋め尽くされている。火山の熔岩と噴煙のような混沌としたイメージの中央右に。ベージュの肌に黒い眉や鼻と口の影、朱の目、すなわち顔がある。シミュラクラ現象により顔を認識してしまっているのではないようだ。他のいずれの作品にも顔や身体など人の姿が現わされているからである。
《flow line》(1455mm×1455mm)には、黒、白、ペールオレンジ、山吹、暗赤色などの混沌とした画面に複数の人物が溶け込む。黒と主に画面の縁に配された暗赤色に対し、白の明るさが強調される混沌のしたイメージの上部には4つの顔が並び、そこから4人の人物の上半身が何とか認識出来る。両手を頭の後ろに廻して肘を持ち上げる中央の人物の姿に、パブロ・ピカソ[Pablo Picasso]の《アビニヨンの娘たち[Les Demoiselles d'Avignon]》の構図の影響を見て取れよう。《flow line》の類例作品に、画面中央付近に4つの顔を並べた《treffen》(910mm×1167mm)がある。
本展のキーヴィジュアル《left waiting》(1650mm×1650mm)の画面中央やや右には、くオーギュスト・ロダン[Auguste Rodin]の《考える人[Le Penseur]》を想起させる、右膝の上に右肘を突いて坐る人物がいて、4人の人物が囲む。《アビニヨンの娘たち》やポール・セザンヌ[Paul Cézanne]の水浴図など、ヌード群像の系譜に連なる作品である。《flow line》や《treffen》と同系の作品であるが、ベビーピンクの肌の人物はより明快に表される。「考える人」の周囲に立つ人物3人が画面右上に凝集する形で配されるのに対し、やや離れた画面左下でしゃがむ人物は頭部や肩・胸に比して手が大きく引き延ばされることで、拡散の力を生む。《flow line》が暗赤色を周囲に置いたのに対し、《left waiting》は山吹色を画面の縁に配する。因みに、明暗の効果の探究は、闇の中に2人の鬼のような人物の頭部を配した《scotoma》(727mm×606mm)や《scotoma #2》(530mm×652mm)でも試みられている
《while crying》(530mm×455mm)は黒と茶の縦方向を中心とした描線の背景に佇む人物を灰色で表した作品。両脚をやや開いて立つ人物は肘を曲げた右手を僅かに持ち上げる。特徴的な頭部は煙のような朦朧とした流体で闇の中に霧消していく。左手奥には白い人影と見えなくもないイメージ、人物の右側には箱か何かの中から灰色の煙(?)が立ち上るようでもあるが判然としない。《艶》(455mm×380mm)は、茶。黒、白の縦方向の描線の中に灰色の人物の上半身を表す。正面右側から捉えられた人物の頭部は下に向けられ俯くようだが流体のような模糊とした頭部のために表情は窺えない。《alternative》(455mm×380mm)は、黒、茶で人物の腰の辺りまでを表した作品。真正面から描かれた人物は右に頭を傾げるが他の部位に比べても曖昧な頭部で表情を把握しかねる。
展覧会タイトルは、ゴットフリート・ライプニッツ[Gottfried Leibniz]のモナド[Monad]に由来する。世界の基本構成単位であるモナドには窓はないとされる、そのモナドの窓を敢てタイトルに掲げている。 ルネサンスの建築家レオン・バッティスタ・アルベルティ[Leon Battista Alberti]は『絵画論[De pictura]』において絵画を窓に比すなど、絵画は窓に擬えられてきた。作家は絵画と人間とを同一視し、その不可視の部分を含めた全体として捉えようと目論むようだ。作家の問題意識は大陸合理論よりもむしろ大乗仏教に通じるようであるが、どうであろうか。
(略)大海から生まれたばかりの無垢なる無人島を訪れた、あるいはそこに流れ着いた、1人の無垢なる少年(少女であってもかまわない)が、どのような体験をするのかを考えてみる。それは、「空」を体得するために、「空」なる場所を訪れ、他者に煩わされることなく、まったくの孤独な静寂のうちに止観、つまりは心の動きを「止め」)(止)、寂滅したその心のなかから湧き上がってくる風光、心そのものである風光を「観る」(「観」)というゴータマ・シッダッタに由来するとともに、大乗仏教が磨き上げてきた手法の隠喩でもある。
他者がまったく存在しなくなってしまったとき、この「私」は一体どうなってしまうのであろうか。他者は、この「私」をこの「世界」に引き留めてくれている最も重要な要素であり、最も重要なメカニズム(機構)をなしている。他者が存在することではじめて、「私」は「世界」と適切な距離を保つことができる。もし他者がまったく存在しなくなってしまったとするならば、「私」と「世界」との間の距離が廃棄され、「私
と世界」は1つに重なり合ってしまうだろう。「私」の意識はそっくりそのまま無人島の意識となり、「私」の身体はそっくりそのまま無人島の身体となる。主観と客観、精神と物質、内部と外部の区別が消滅してしまう。大乗仏教が求めているのは、そのような体験である。無垢なる「私」と無垢なる「世界」が1つに重なり合う。果たして、そのような事態は本当に可能なのだろうか。もし可能であるとしてもただ狂気としてしか、正常を逸脱した倒錯としてしか、把握出来ない体験ではないのか。あるいは、憑依によって自他の区別が消滅し、森羅万象あらゆるものが1つに入り混じるという体験としてしか把握出来ないものではないのか……。大乗仏教は、そのような異様な体験に明確な論理を与えようとする。狂気に、倒錯に、憑依に、論理が与えられるのだ。狂気が、倒錯が、憑依が、論理として磨き上げられていく。その果てにいったいどのうな認識がひらかれようとしているのか。(安藤礼二『空海』講談社/2025/p.136-137)