可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 菅雄嗣・渡邉太地二人展『Deja vu』

展覧会『菅雄嗣×渡邉太地「Dej vu」』を鑑賞しての備忘録
FOAM CONTEMPORARYにて、2025年10月11日~29日。

1851年にロンドンのハイド・パークで開かれた第1回万国博覧会の会場「水晶宮[The Crystal Palace]」をモティーフにした絵画を展観する、菅雄嗣と渡邉太地との二人展。

 ルイス・キャロルは(本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン 1832-1898)は、コナン・ドイルと同じ19世紀後半の英国作家であり、かつ数学者、論理学者でもあった。それだけでも想像がつくが、秩序、順序を含めたいわゆる「オーダー」を大変敏感に感じられる王立協会タイプの人だ。
 コナン・ドイルは、分析的精神を持った「見る」光学タイプの典型であるが、キャロルはそれがもっとはっきりしている。そうでない人間が鏡の物語を丸々1冊書いたりするだろうか。そういった意味でも2人を比較することができる。
 ドイルは第一次世界大戦後、はっきりオカルティストに変わる。息子の戦死で、それはさらにはっきりする。キャロルも、最晩年の10年くらいの間にできたばかりの「サイキック・リサーチ・ソサイエティ(英国心霊協会)」の創立メンバーになる。キャロルはいろいろなところに名前を出すが、これはとくに首をひねらされる点であろう。そのあり方自体、コナン・ドイルに酷似している。
 キャロルが活動を始めたのは、実に1850年である。彼はお家べったりのマザコン、シスター・コンプレックスの少年だった。それが親元を離れて、オックスフォードで教職につく。
 その翌年、ロンドン万国博覧会が開催され、その翌年にフランスに世界初の百貨店「ボン・マルシェ」が登場する。
 (略)
 こうして1850~1852年を境に、断片にしたものをアレンジして商売にする傾向がはっきりしてくる。ロンドン万博はその典型である。エキスポジション(博覧会)の文化はロンドン万博を契機に始まる。その100年前が第5章で述べた「大英博物館」だから、分類展示の文化はポップ、ステップときた。大英博物館の何年か後に「英国王立美術展」の第1回が開催されたはず。今日のエキシビション文化は、1753年ぐらいに大体でき上がっていたが、そのちょうど100年後に、そうした展示品に正札のつく商業革命が起きた。陳列してあるものを眺めて楽しんでいたのが、「お金を出せば買える」文化になる。それが前述のデパートだし、万博である。ポップ、ステップ、ジャンプである。(高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』講談社講談社学術文庫〕/2007/p.259-261)

会場のFOAM CONTEMPORARYは銀座蔦屋書店の店内に設けられたギャラリーであり、同店は複合商業施設GINZA SIXの6階にある。GINZA SIXはかつての松坂屋銀座店である。第1回万国博覧会の会場「水晶宮」をモティーフとした美術展は、かつての百貨店であった商業施設内のギャラリーで開催されるに相応しい。

菅雄嗣《liminal paint_Crystal Palace #1》(1630mm×910mm)は鉄とガラスでできた水晶宮のアーチ型の翼廊の屋根が印象的な内部空間の建物と植栽とをメタリックな銀色に緑青のような淡い青緑で表す。目を惹くのは恰も陽光が射し込むように右上から左下に絵具を削り取り暈かしている点である。恰も着物の片身替わりのように機能し、画面は暈けた部分を挟んで明るい上部と暗い下部との3つに分割される。菅雄嗣《liminal paint_Crystal Palace #2》(1630mm×910mm)は《liminal paint_Crystal Palacen #1》と対になる作品で、左上から右下への帯が画面を3分割する。菅雄嗣《liminal paint_Crystal Palace #3》(530mm×530mm)はアーチ型の天井と植物とをメタリックな画面に山吹色で表し、右上から左下に向かう対角線の下側を淡い紫の暈けた画面に変換してある。対となる菅雄嗣《liminal paint_Crystal Palace #4》(530mm×530mm)では同様のイメージを描きつつ、左上から右下の対角線の下側を淡い青緑の暈けたイメージに仕立てている。菅雄嗣《liminal paint_Crystal Palace #5》(1167mm×660mm)は水晶宮内部の植物群をメタリックな画面に紺で表しつつ、左側半分を曖昧なイメージに転換し、
、菅雄嗣《liminal paint_Crystal Palace #6》(1167mm×660mm)では同様のイメージを淡い青緑で表しつつ、右半分を暈かしてある。作家は水晶宮を植物園の温室として表すのは、水晶宮の祖型が植物園にあることを示すために他ならない。

 石の建築にはもはや未来がないと裁断するとき、ユイスマンスが石造りの「不格好で大きな建物」の筆頭に挙げるのは、ナポレオンⅢ世様式を代表する建築と言われるシャルル・ガルニエ設計のオペラ座である。(「ガルニエ氏のオペラ座という、あの惨めったらしいごった煮」云々)。他方、金属については、まだ石の建築の付属品の地位にとどまっており、このマチエールだけ用いて「鉄道駅だの温室だのでないモニュメント、美学が引用しうるようなモニュメント」を創造する力はもっていない、という。ここでユイスマンスが用いている「駅」と「温室」という2つの単語の裏には、明示されてこそいないが、それぞれ第二帝政期に名を馳せた2人の大建築家の代表的作品、ジャック`=イニヤス・イットルフの「パリ北駅」と、ヴィクトール・バルタールの「レ・アル(中央市場)」のイメージが潜んでいたと考えて、まず間違いはないと思う。
 「北駅」はともかくとして、「中央市場」がなぜ「温室」なのか。バルタールのこの作品に代表されるような、鉄骨とガラスを使用して採光の良い巨大屋内空間を創出する技術は、そもそも植物栽培のための温室建築の洗練を通じて発達してきたものだからである。1851年にロンドンで催された第1回万国博覧会に際して建造されたあの〈水晶宮〉の設計者ジョゼフ・パクストンも、元来は大温室の設計と建造で名を上げた技術者だったのだ。鉄の骨組みによるガラス屋根は、当時のヨーロッパでは建築に於ける鉄使用のもっとも秀れた成果として人気があり、第二帝政期以降、駅や市場をはじめ百貨店、銀行、図書館といった大きな公共施設は企業の社屋に積極的に採用されていく。ベンヤミンが、その文化史的意義を力説した「パサージュ(遊歩アーケード街)」も、こうした状況を背景に成立した都市の建築装置だったのである。(松浦寿輝エッフェル塔試論』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2000/p.21-24)

「レ・アル(中央市場)」が「温室」となったのは、ナポレオン3世オスマンにパリを大改造させる際、水晶宮のイメージがあったからである。

 現在、ガラスのショッピング・センター《フォーラム・デ・アール》のある場所に中央市場が建設されたのは遠く12世紀のルイ6世の時代に遡る。それ以来、この場所で中央市場は順次拡張をつづけてきたが、1847年に至って古い市場を全面的に取り壊し、新しい中央市場を建設することが決まった。ところがそこに二月革命が起こり、着工できる状態のまま、いたずらに月日を重ねたが、それでも大統領ルイ=ナポレオンの強い意志により、1851年の8月には建築家バルタールの設計になる市場の一号棟が着工にこぎつけた。
 ところが、いざ市場が建ち上がってくると、ルイ=ナポレオンは自分がイメージしていた理想とはまったく違うといいだし、1852年の3月には工事の中止を命じた。バルタールの設計した石造りの市場は完全に古い様式の建物で、フォール(要塞)のようであったため、人々は、これをラ・アール(小麦市場)のフォール(運搬夫)とかけて《フォール・ド・ラ・アール》とあだ名したが、ルイ=ナポレオンはこの様式に激しい不快感をおぼえ、なんと、完成した一号棟を取り壊して、一からコンペをやり直すように指令したのである。
 オスマンは着任早々この問題にぶつかった。バルタールはすっかり意気消沈し、コンペは参加しないと言い出したが、オスマンはバルタールとはアンリ四世校時代の学友でもあり、また彼の才能を高く買ってもいたので、なとかコンペに参加させようと努める一方、ナポレオン3世の頭にあるイメージを聞き出そうとした。オスマンがいろいろ探りを入れてみると、ナポレオン3世が考えているのは1851年にロンドンで開かれた第1回万博のパヴィリオン、つまり、パクストン設計になる鉄とガラスの《クリスタル・パレス》に近いものであることがわかった。そこで、オスマンはこれをバルタールに伝え、幾とおりかプランを作成するよう命じた。
 ボ・ザール(美術学校)出身でローマ賞受賞者でもあるバルタールは「私には、そんな温室のような建物の設計はできない」と尻込みしたが、オスマンは「それでは私の面子が立たない」と泣き落とし、無理やりナポレオン3世の意向に沿うような新しいプランを作成させた。出来上がった新しい3とおりの設計図を持ってオスマンナポレオン3世のもとにデ幕と、皇帝はクリスタル・パレスに最もよく似たプランを指し、「私が欲しかったのはこれだ」と恐懼して、こうオスマンにたずねた。
 「すごい。天才だ。いったい、この建築家は前にどんな建物を建てているんだ?」
 「陛下が取り壊させた《フォール・ド・ラ・アール》です」
 そして、驚いて声も出ない皇帝に向かって、自信満々にこう付け加えた。
 「建築家は同じですが、知事は同じではありません」(鹿島茂『怪帝ナポレオン3世 第二帝政全史』講談社講談社学術文庫〕/2010/p.349-350)

世界を窓[windows]越しに目撃する遊歩者を生んだ「パサージュ(遊歩アーケード街)」の原型は水晶宮、延いてはその原型たる世界の植物を蒐集する植物園にあった。現在ではもはや歩くことさえない。指先の動きだけで液晶画面越しに世界を見てしまう[déjà vu]。

渡邉太地は、水晶宮の故地を訪れた印象を描いているという。例えば、《Space #38》(1174mm×1795mm)では上端に紫、黄緑の帯を挟んで下側に山吹や、オレンジ、黄緑の筆が重ねられた抽象的なイメージであり、具体的な景観ではない。木枠に固定されながらも画布が背面に折り曲げられておらず、食み出したままに展示されている。他の作品も同様である。《Space #33》(2030mm×1540mm)は、黄緑、黄、白、水色などのタッチで覆われた上側と、黄と白との点描の帯を挟んで、明度の異なる赤が塗り重ねられる下側とで構成される画面である。草地を想起させる上部と、より抽象度の高い赤い花壇を想わせる下部との対象が補色によって強調される。とりわけ本作は床に赤くい画布が垂れているのが目を惹く。

 そしてこの遊歩者の歩くパリは世界都市である。つまり、その通りの名の名前にフランスの各地方を人口や地勢に応じて割り振り、それによってパリがフランスの縮図になり、フランスがパリの拡大図になるような都市であり、街路名によって「言葉の宇宙」となるような世界(universal)都市である。室内も風景も迷宮も世界都市としての性格をもっている。あるいは世界のバロック的迷宮性が現われていると言うべきか。
 この迷宮のなかで瑣事への追想を陶酔のなかで疲労困憊しながら研究によって求める遊歩者、目立ちたがり屋でありながら、控え目なこの探偵、「お忍びを楽しむ王侯」でありモヒカン族である、好奇心そのものの蒐集家――彼はいったいなにものなのであろうか。一方にあるのは最終的な絶望の予感である。なぜなら、彼は幻影(Phantasmagorie)を振り払うためい収集する。同時にそこに別のものを読み取り、そして目覚めるために瑣事を収集する。だが、その瑣事は無限にあり、集め切れるものではない。それは歴史の破局がもたらす断片であって、収拾不能という絶望があるのみだからである。「知るに値することの収集は基本的には完結不可能であり、そうしたものの利用可能性は偶然次第であって、そうした完結不可能性のプロトタイプは研究調査である」。収集が完成しなければ、アクチュアリティの全面的展開もあり得ない。残るは絶望だけである。すでにバロック論で、「収集の熱狂と配置のだらしなさが」言われていた。他方で、今までに挙げたさまざまな特性――研究者、懐疑家、賭博師、娼婦を買う男、陶酔のなかの追想家、探偵、ジャングルのモヒカン族、収集家などなどの矛盾しあうすべての性格を兼ね備えている者、それは神以外にはいない。(略)だが、絶望している以上、ほとんど神であっても、やはり神ではないのかもしれない。ハンナ・アレントは、遊歩者とは「歴史の概念について」にある、パウル・クレーによる「新しき天使」であると言っているが、あるいはそかもしれない。しかし、〈矛盾の統合(coincidentia oppositorum)〉としては、かつての弁神論(例えばニクラウス・クザーヌス)を想わせて、ほとんど神である。
 なんでもあるがゆえに、そしてそれらが矛盾しあっているものの統一であるがゆえに、ほとんど神で或るような存在を想うことは狂気の一歩手前である。(略)
 (略)
 想いだされるのは狂気に陥る直前に「わがいとしの王女アリアドネ(コジマ・ヴァーグナー)」に宛てたニーチェの文章である。「私が人間だというのは偏見です。私は……人間が経験できるすべてのことを、卑小なことから、最高のことまで知ってはいます。しかし私はインドでは、仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。……アレクサンダーとシーザーは私の化身です。最後にはヴルテールとナポレオンでもありました。……私は十字架にかかったこともあります(1889年1月3日)。これは、永遠回帰の狂気の転身物語である。ニーチェも19世紀の破壊を企てた。それに失敗したときの絶望による自己矛盾の形象が、このほとんど神たる存在の遍在欲望である。あったかもしれないものへの夢である。
 だが、ベンヤミンニーチェのようにそれを「永遠回帰」のドグマとしてまた実体化することなく、群衆の中の遊歩者と彼の視線に浮かぶものの分析的収集に向かう。駅、展覧会ホール、百貨店はすべて集団的な事柄を対象としている。「このような……『忌み嫌われた、日常的な』建造物にこそ遊歩者は魅される。こうすた建造物においては、歴史の舞台における巨大な群衆の登場がすでに予定されている。それらは、最後まで残っていた私人が喜んで自己を見せびらかす常軌を逸した枠組みをなしている」。「忌み嫌われた」はちょっと理解に苦しむが、一般的に日本と違って、この種の公共の建造物は、教養市民層の嫌悪の対象となる(時には本当は興味がありながら嫌悪しなければならない)という文化的習慣を背景にしてのことであろう。この「蒸気を逸した枠組み」と「巨大な群衆」が今でも続いている以上、遊歩者の、特に疑念も続いているはずであるし、永遠回帰の狂気にほとんど神として呑み込まれかねない事態も続いているはずである。
 遊歩者による引用の堆積は、引用された原文の思い出、原文の潜在力を解き放つための思い出であることも以上のことから理解できるだろう。同じように、現実の一断面の記述としての現実の引用、特に『ベルリンの幼年時代』や『パサージュ論』におびただしい現実からの「引用」は、現実の潜在力を解き放つための思い出であろう。思い出――つまり〈根源の歴史〉へのアナムネーシスである。(三島憲一ベンヤミン 破壊・収集・記憶』講談社講談社学術文庫〕/2010/p.459-462)

パサージュの延長線上にあるスマートフォンタブレットPCにより「ほとんど神たる存在の遍在欲望」は半ば実現している。その中で絵を描くことの意義は「現実の潜在力を解き放つための思い出」であることにあるのかもしれない。