可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 樋口健彦個展『気配・かそけきものたち』

展覧会『樋口健彦展「気配・かそけきものたち」』を鑑賞しての備忘録
ギャラリー川船にて、2025年10月20日~11月1日。

墨を吸着させた陶やワッシャーを連ねた柱状作品を中心とする、樋口健彦の個展。

《気配/Presence 1》(1680mm×340mm×340mm)は、無数の黒い陶片(?)が敷かれた床に設置された直径30cm強の黒い球から垂直に伸び上がる線が次第に細くなり、再び膨らみ床に接した球の半分ほどのサイズの黒い球へと連なる作品である。上下の陶製の球体が心棒の入った細いモルタルでしなやかに接続される様は粘性のある黒い液体が宙空から垂れるようなイメージであり、アクロバティックな印象さえ生む。日本人男性の平均身長に近い高さがあることから男性ないし人間のメタファーとも解される。ところで、会場入口付近には、より規模の小さい類例作品《気配/Presence 2》(990mm×250mm×250mm)が白い展示台に別途展示されており、奥に設置された《気配/Presence 1》と同時に眺めることができる。大きい球から小さい球が生じるという入れ籠の関係は、サイズの異なる類比的な作品によって繰り返され強化される。

 1個の球体が途方もなく拡張したり縮小したりすることによって成立する、入れ子のテーマの名米の感覚は、これおをバロック的な想像力の効果と呼んでも差支えなさそうな気がする。(略)リチャード・クラショーの詩を引用しながら『円環の変貌』の著者ジョルジュ・プーレは、「宇宙の壮大さが子供の手のなかの玩具となり、一方、子供の微小さが世界を抱く紙の巨大さになるところの、この交叉的な運動ほど、バロック的な想像力を特徴づけるものはない」と語っているけれども、この交叉的な運動というのは、そのまま、眩暈を伴う入れ子のイメージの運動ではないか。
 中世人の考えた宇宙は、より小さい球体がより上級の球体に階層的に嵌めこまれているといったような、いわば同心円によって表された宇宙であった。私たちは、このような同心円の宇宙の典型的な例を、たとえばダンテの『天堂篇』の挿絵として描かれた、ボッティチェリの美しいデッサンによって知ることができる。(略)
 ところで、いわゆるバロック様式の美術がヨーロッパ世界に出現したのは、多くの美術史家の意見によると、プトレマイオス宇宙論に代わって、コペルニクス宇宙論が勝利を占めた直後であったという。コペルニクスの学説は、神の摂理によって決定された世界における人間の位置を、根本的に変化させてしまったのである。創造の中心は地球から太陽へ、すなわち人間の領域から火の領域へ移ってしまった。神の創造による有限な世界という観念は破壊され、その代わりに無限の宇宙という、畏怖すべき観念が生じた。事実、バロック的な不安の持主であったパスカル(正しくはパスカルが代弁者となった無神論的自由思想家)が、これを畏怖したのである。同心円の宇宙の階層的な秩序は曖昧になり、小さな球体がふくれあがったかと思うと、大きな球体がみるみる小さく縮んだりするようになった。これを要するに、コペルニクスの学説は、世界が人間のまわりを回転するのをやめたということを教えただけでなく、また世界にはそもそも中心点などというものが存在しないこと、世界は全く同質にして同価値の諸部分から成るもので、その統一性は、ただ自然法則の普遍妥当性のうちにしかないということをも教えたのである。
 「宇宙は互いに縛り合わされた大きな弾力性のあるもので、膨張し収縮する様な巨大な気球の集合体であると想像できよう」と述べているのはフォントネル(『デカルト派の渦動論』)である。膨張したり収縮したりする宇宙は無限であり、しかも統一的であって、1つの連続的な原理によって組織された体系、1つの有機的な機関、1つの永久運動装置、1つの理想的な時計仕掛けとなったのであった。(澁澤龍彦『新装新版 胡桃の中の世界』河出書房新社河出文庫〕/2007/p.274-278)

《気配/Presence 1》に見出されるのは、「小さな球体がふくれあがったかと思うと、大きな球体がみるみる小さく縮んだりするようになった」、「膨張し収縮する様な巨大な気球の集合体」としての宇宙=マクロコスモスであり、延いてはミクロコスモスたる人間と照応する。
銅板を螺旋状に捲いた貝殻のような《study》(88mm×77mm×88mm)もまた入れ籠構造に連なる作品と言えよう。螺旋構造は開かれもし閉じもする。また銅板を覆う墨には斑があり銅色を垣間見せ、闇の中に光が兆す。パラドクスを孕んでいる。アルミニウムの円盤を墨を塗布したモルタルで接着して積み上げた《real number》(108mm×50mm×50mm)もまた光と闇の同居であり、それはオセロの石のように常に反転可能性を孕む。スチール製のワッシャーを心棒に挿して積み上げた柱状作品《real number》(330mm×20mm×20mm)は男根のメタファーでありつつ、挿し抜かれたワッシャーには穴≒女陰があり、雌雄同体である。

 (略)これもパラドクス的想像力の象徴と関係する形で示されているところがいいわけだが、ひとつは分類学のリンネとのかかわりである。「愛の植物学」の中で、フーコーの『狂気の歴史』を参考にしながら、リンネの分類学が、ちょうど精神病がそうされたように自然が「監禁」されていった、その道具であったと澁澤〔引用者補記:龍彦〕氏は述べる。そのかぎりではさして目をむくほどの図式ではないが、さすがと思ったのは、エウヘニオ・ドールスの奇著『バロック論』から次の一文が引かれていること。引用魔澁澤のストックのたしかさにはいつもながらに感心する。
リンネの手になる被造物の一覧表と、この偉大な分類学者の沈着冷静とをわずかに乱しているように見えるののは、その調和のとれた分類の枠から執拗に逃れ出ようとする幾つかの動物、すなわち蝙蝠、クジラ、かものはし(鴨嘴獣)などの存在だけである。これらの動物たちは罰として、『自然の体系』の二折判の大きなページの下の隅のほうに、2本の線で取り囲まれた一種の檻のなかに閉じこめられており、その檻には不名誉のレッテルのように、パラドクサ(奇異なるもの)と記入してある。
 ラテン語ふたつの記名法に截然と区分できないものは、要するにパラドクサルなものたちである。動植物と人間の連続をいう万物の「連鎖」ないし照応という思想、ないしはそういうアナロジー思考に拠る博物誌への澁澤氏の関心、人間と獣、植物と動物の間の混淆にほかならない奇怪なものたちを扱う怪物学への澁澤氏への惑溺、そして究極的には男と女の境界のみか、人と物質との皮膜さえをもとりはらってしまうサドのエロティシズムへの澁澤氏の傾倒……すべては、境界をつくりだす力へのノン(否)から発しているものなのであり、ドールスのいうように「分類」できないものが「パラドクサ」であるならば、要するに「渋澤龍彦という夢」の全体がパラドクサルと称しうるはずなのである。
 リンネの『自然の体系』は1768年に完成をみている。そこですぐ思いだされるのは「前成説」の敗北のことである。「入れ子のテーマによって惹起される眩暈の感じ」、すなわち大小をめぐるパラドクス的想像力のジェネレーターであった「前成説」が敗れ去ったのが、「胡桃の中の世界」によると1759年のことであったというのだ。要するに問題はその界隈からのことであり、「入れ子」的想像力の終熄は、澁澤好みの「円環の渇き」が止めを刺され、コーリー流にいれば円環的なものが直線化され、世界と物語がひとしくエンド(終り/目的)の軛へとつながれていく「近代」の始まりを意味している。(高山宏『新編 黒に染める 本朝ピクチャレスク事始め』ありな書房/1997/p.299-300)

床に接する部分で最大径の陶製の円盤を配し、心棒に挿してより直径の小さな円盤をモルタルで継ぎ、針のように繊細な墨色の柱《塔/Tower》(1495mm×140mm×140mm)は、モニュメンタルかつしなやかな作品である。円環から直線へという「世界と物語がひとしくエンド(終り/目的)の軛へとつながれていく『近代』」を象徴する作品とも解し得よう。尤も「パラドクス的想像力」を有する作家は、闇の秩序に遊び、隙間すなわち光を挿入することを忘れない。ならば本作品には"塔/Tour"こそタイトルにふさわしいだろう。フランス語で塔を意味する"tour"はラテン語で城塞を意味する"turrem"に由来するが、同時にラテン語の"torno"を起源とする回転を表す言葉も同じ綴りだからである。すなわち、しなやかな塔は転回して近代の「エンド(終り/目的)の軛」から逃れる可能性を秘めるのである。