可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 中村翔大個展『青と緑』

展覧会『中村翔大「青と緑」』を鑑賞しての備忘録
タカ・イシイギャラリー 京橋にて、2025年10月4日~11月1日。

海岸や窓辺など境界をモティーフにした絵画で構成される、中村翔大の個展。

 言語革命は死後を発明しただけではない。
 この世をあの世に変えたのである。
 出生した赤子に名を与えることはこの世に位置づけることだが、名は生命とともに消えるわけではない。名は既になかばはこの世を超えているのである。与えられた名を生きることは生きながらにして死の世界に足を踏み入れることであり、墓を築くことは死者の名をなおこの世にとどめ、大なり小なりそれがこの世を支配することを許すことなのだ。ブランショ風にいえば、死の空間である文学空間はこの段階ですでに始まっているのだ。人間は死者に立ち混じって生きること、死者を生かし続ける術を発明したのである。(略)
 人は生きるために死という広大な領域を発明し、そのなかに立ち入ったのである。
 人間は生と死を転倒させたといっていいが、そのようにして初めて生を意識しえたのだ。要するに、人はみな文学空間に住むことになった。(三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学講談社/2018/p.480-481)

《Nude in a Wood (after Henri Matisse)》(918mm×718mm)には、黄土色、ベージュ、紫、山吹色、茶色、抹茶色などの塊で異なる樹種を表したと思しき山肌を臨む場所に裸で坐る2人の人物が描かれる。黄土色を中心とした淡くやや暗い画面は秋の情景であろうか。タイトルに示されるアンリ・マティス[Henri Matisse]の作品はメトロポリタン美術館[The Metropolitan Museum of Art]所蔵の《Nude in a Wood[Nu dans la forêt]》(1906)であろうか。同作は緑の中に朱や紫といった補色に近い鮮やかな色彩を配した明るい画面で、膝を曲げて背を向けて坐る人物の肌もペールオレンジにピンクや極淡い群青を差してある。明るいマティスの作品と対照的に本作はくすんでいる。人物は完全に後ろ向きの人物と膝を曲げる横向きの人物とに分けて表現され、後者の肌は土気色である。敢て曖昧な色彩で明度を抑えているのは、明暗の間であることを暗示するためではないか。実際、2人は森にいると言うよりも磯にいるように見える。ペールオレンジと土気色との2人にキャラクターを分割したのも、生者と死者とを象徴する狙いが透ける。生と死との境界こそ本作の主題ではないか。
表題作《Blue and Green》(1800mm×1200mm)には、茶色ないし茶褐色の肌の裸体人物が崖上で頭頂部に両手を持ち上げて立つ姿が表される。海辺の人物立像という点ではポール・ゴーギャン[Paul Gauguin]を髣髴とさせる。だが頭髪が無く目鼻口をごく極曖昧にしか表さない人物はマネキンのようで中性的である。90度に近い急傾斜で崖の上の黄色い土地を表し、その背後には水色の海、さらに水平線を挟んでくすんだ淡い青色の空が拡がる。人物の脇には白い布や石ころ、草叢(?)などが見える。画面右上には枝垂れた枝に付いた7枚ほどの大ぶりな葉が覗く。海辺は陸と海との境界である。地面に立って海、空を背景に立つ人物は、生者の世界と死者の世界とを貫くようだ。人物の左足が画面から一部切れるのは跨ぎ越しの印象を強調する。
《Goldfish by the Window》(1800mm×1300mm)は、山の斜面に立つ家を臨む窓のある部屋に置かれた金魚鉢を描いた作品。灰色の壁の部屋にある窓は青色の扉と灰色のカーテンとが開かれて、向かいの木々が生い茂る山肌の中に半ば埋もれて立つ青い屋根の家が見える。アールヌーヴォー調の植物の透かしが入った手摺が低い位置にある。室内のシンプルな木製の台の上には水を張った円筒状のガラス瓶が置かれ、2匹の金魚が泳ぐ。マティスの《インテリア、金魚鉢[Les poissons rouges]》(1914)を下敷きにした作品と思しい。マティスの作品が都会の夜の部屋を舞台にしているのに対して、本作は田舎の昼の情景である。本作で注目すべきは台の傍の床に揃えて置かれた靴である。何故窓辺に靴があるのか。窓から飛び降りる様を想像させもする。屋内と屋外との境界である窓辺もまた、此岸と彼岸との境界であるからだ。
《Studio》(1200mm×1500mm)には、湖(あるいは海)を臨むアトリエが描かれる。窓の前には画架と3脚の種類の異なる椅子がある。右手前には4つの果実の置かれたテーブルがある。右奥には沢山の絵筆を挿した器と水を張ったガラス瓶を置いた卓があり、背後の壁には男性裸体像の絵画が掛かる。画面の上半分の殆どを占めるのが窓であり、湖(あるいは海)が拡がる。大小の山あるいは島が対岸に見える。1艘の舟が水面に浮かぶ。大きな雲が出ているものの青空が覗く。それでも霞が懸かるようにぼんやりと薄暗い。やはり屋内と屋外、海と陸とともに遷移の場、境界を表現するのだろう。鮮やかな果物は生命の象徴であり、室内の椅子は不在を暗示する。ならば舟は、アルノルト・ベックリン[Arnold Böcklin]の《死の島[Die Toteninsel]》に登場する舟と目的地を同じくすると言えまいか。
《Still life with Apples》(550mm×650mm)は、布の上とその脇に置かれた橙色や黄色の果物4つを中心とした作品。ポール・セザンヌ[Paul Cézanne]の静物画を連想させる。
タイトル自体は、ニューヨーク近代美術館[The Museum of Modern Art, New York]所蔵作品《Still Life with Apples[Nature morte aux pommes]》と共通するが、イメージは
シカゴ美術館[The Art Institute of Chicago]の《The Basket of Apples[Le panier de pommes]》などに近い。セザンヌ作品と異なる本作の特徴は、室内ではなく屋外である点にある。布と果物とはテーブルではなく砂浜の上に置かれているのだ。黄土色の砂地の中、水がV字状に入り込んでいる。水平線には島影(あるいは山並)が見え、大きく湧いた雲が拡がりつつ青空も覗く。静物画[nature morte]自体、伝統的にヴァニタス[vanitas]として死を想起させる[memento mori]ジャンルであるが、水陸の境界を舞台にするに設定されることで死者[moete]を招き寄せる。それは、反転して生きることを考えさせることになる。《Flowers》(550mm×650mm)は花瓶に活けた赤、オレンジ、ピンク、白などの様々な花を描いた作品。華やかなモティーフにも拘らず、セザンヌ静物画の室内などよりもさらに暗い青い空間に沈む。それはブルーアワーの表現であろう。夜と朝の、闇と光の、すなわち死と生との間である。果物であろうと花であろうと、テーマは変わらないのである。
《Seashore》(911mm×1428mm)は、下に岸辺を配しつつ前面に海面を描いた作品である。上部に黄色い満月が見える。例えばエドヴァルド・ムンク[Edvard Munch]が表すような水面の月光の反映が無いことから、 月は空に懸かっているのかもしれない。否、海か空かとが判然としないことこそが作家の狙いであろう。生と死との曖昧な中間領域こそ描かれるべきだからである。言葉が行う截然と区別などできはしないのが本当の世界なのだ。生と死との境界でさえ曖昧である。