展覧会『小田川史弥「Someone called my name from my memory」』を鑑賞しての備忘録
Colony Minami Aoyamaにて、2025年10月17日~11月3日。
景観に溶け込む伸びて歪む身体が不思議と現実感を生む絵画で構成される、小田川史弥の個展。
《小さな言い訳》(390mm×335mm)は、グラスの並ぶテーブルに肘を置く女性と、彼女の背後から覆い被さり腕を廻す男性とを朱を背景に表した作品。画面下部の淡い黄緑色のテーブルにはシャンパングラスや食器が並ぶ。女性は両肘をテーブルに載せ、左手で頰杖を突く。彼女の背後にいる男性は左腕を彼女へ廻す。彼の左腕は画面右上の肩から垂直に降ろされ、直角に近い弧を描いて画面左下にある彼女の肘まで伸びる。異様に長い腕が彼女の身体を取り巻く様を強調するが、決して彼女の身体には触れはしない。その空隙は、同じ紫で表された2人の頭部、取り分け彼女の流れる髪により2人が溶け合うのと対照的である。2人の間にある蟠りは頭部の紫で表されている葡萄酒の力で解消されるであろうか。
《Someone called my name from my memory》(1620mm×2730mm)には、浅瀬に立つ男性が淵に半ば沈んだ男性を引っ張り上げようとする姿が描かれる。画面右下に群青の淵があり恰幅のいい男性が腰まで水に浸かる。彼は、オレンジ色の浅瀬に立つ男性の差し出す右手を掴もうと、自らの右腕を伸ばす。浅瀬に立つ男性はパンツの裾を捲り上げ足首まで水に浸る。体を左側に倒した姿勢が重い男性を引っ張り上げようとする力を表現する。彼の動きに波立った水面はオレンジやピンクや、水色に輝く。画面上端には明るい山吹色あるいはピンク、オレンジで岸辺が表され、右端にレジャーシートを敷いて横たわるカップルが溶け込む。1人はスマートフォンを手にしている。中心の2人の起こす波紋は岸に達するが水の中に留まり、岸にいるカップルにまでは伝わらない。タイトルからは淵の象徴する長期記憶から呼び覚まされる出来事を描いたことが知られる。明暗、陸水の対照は現実と記憶に相当するのだろう。
《沈黙のあと》(385mm×455mm)は、薄暗い部屋で両腕を組み突っ伏す男性を、主に群青と黄色とで表した作品。男性の両腕は画面下端に画面の横幅一杯に展開する円弧の重なりとして表現され、頭部が腕と線対称の円弧を構成する。腕と頭との弧に挟まれた顔はオレンジで、伏せた眼が茶色い眼窩に表される。左側には群青の鉢に植えられた黄色い観葉植物が置かれ、その葉が男性の髪へと伸びて溶け合う。その接触は明るい緑を差すことで印象付けられる。暗い部屋で輝く植物の力に男性は癒やされているようだ。背後の闇には棚らしきものがある。その右側には目・鼻が見える(人面が浮かぶ)ように見えるのは気のせいか。
《もうすぐお別れ》(1620mm×1303mm)は眼窩に池がある高台にいる2人の女性を表した作品。画面の上側は所々緑を差した山吹色の靄で覆われている。紅葉の表現であろう。その下に赤茶色の池が拡がり、寄り添う2羽のアヒルがそれぞれ水に嘴を入れる。池の岸には杭が立ち並ぶ。画面下端には緩やかな弧をなして柵があり、2人の女性が立っている。1人は帽子を被り左手を後ろに反らせる。もう1人は柵に両腕で掴まって体をくの字に折り曲げている。2人の姿は上から捉えられ、柵で囲われた部分が狭いことと相俟って、高さが表現される。くの字の女性は身体の屈曲に加え、髪の毛が右に強く吹き流されていること、また帽子を被った女性の腕の伸び方、さらに隣同士の2人の女性の身体の作る角度によって、崖っぷちから引き離される動きとそこに留まろうとする反作用とが
生み出される。それは眼下の池で泳ぐ番のアヒルたちの平穏と対照をなす。
《内緒話》(1620mm×1303mm)には、犬を散歩させる男性が鉢合わせた犬とを中心に、通りすがりの女性や芝生で横たわるカップルが描かれる。草地で犬を散歩させる短パン姿の男性はスマートフォンに眼を奪われている。男性の足元に寄り添う飼い犬は夕陽に煌めくタイル張りの舗道に左の前肢を踏み入れたところ。舗道にいるごわごわした毛の犬に関心を寄せる。だがごわごわの犬は飼い犬ではなく通りすがりの女性に気を取られている。立ち去る女性は目を伏せた頭部が頭の辺りまで画面下端に覗く。芝生ではカップルが横たわる。1人が相手に対してアーチ状に腕を伸ばす。ネット空間に意識を向ける男性と、恋人に意識を向けるカップル(ひょっとしたらアーチ状の腕の方だけが相手に意識を向けているのかもしれない)とは、お互いに草地の現在という場を共有しながら、まるで違う世界を生きている。両者の近さと遠さとがオーロラのような夜の帷が降りようとするピンクの夕闇の中で絶妙に表現されている。駅や公園など公共空間にいる人たちが互いに視線を交わさない姿を描く相笠昌義の世界に通じるものがある。
《停電》(1620mm×1303mm)は森との境に立つフェンス脇のテーブルに突っ伏して眠る女性と彼女の背後から覆い被さる男性とを表した作品。金網フェンスの向こうには黄色い空をほとんど覆い尽くしてしまう森が拡がる。鬱蒼とした森のせいで陽光は残るが辺りは暗い。にも拘らずフェンスの境目にある街灯が点いていないのがタイトルの由来と思しい。ベンチに坐りテーブルに顔着けて眠る女性は、ベンチやテーブルと一体化したように茶色で表わされる。その背後から彼女に触れる男性は黄緑の光を浴びているように表され、なおかつ右端を跳ね上げていることから駆け付けたことが見て取れる。テーブルの奥側と手前側のそれぞれ低い位置、また金網フェンスの奥と手前とに、計4頭の蝶が舞う。男女の明暗と蝶のフェンスの前後という対照性が印象的である。蝶は胡蝶の夢を介して現実と夢との世界を行き来させもする。
《海からの帰り道》(1005mm×870mm)は暗緑色の浜辺から立ち去る男女と未だ砂浜に横たわるカップルなどを描いた作品。群青の夜空が拡がる中、残光がオレンジ色の光を海に映している。画面中央の波打際ではカップルが抱き合い寝そべる。別の男性が夜の帷が下りようとする海を振り返る。振り返ることなく帰途に就く女性の顔が画面の下端に覗く。左端には男性が1人浜辺に寝そべっている。カップルの足元まで水が迫る。恰も映画『シェイプ・オブ・ウォーター[The Shape of Water]』(2017)のキーヴィジュアルのように、カップルが水中に漂うようにも見えてくる。実際、2人は周囲とは別の世界に耽溺しているのである。《内緒話》の系列の作品と言えよう。
〔引用者補記:アンリ・ベルクソンの1896年の著作〕『物質と記憶』の概要を述べると、注意はつねに、2つの軸において作動しているということが論証される。一方は、外部からの感覚刺激と事象の流れに注がれた注意力であり、他方は、記憶が「現在の」知覚と一致するか、もしくはそこから逸脱する経路に注がれた注意力である。個々の生命における自律の度合いは、記憶が知覚と交わる、まさに不確定で不明瞭なこの部分に比例するとされる。環境に対する知覚反応が、より「確定的」であればあるほど、つまりより習慣的で反復的であればあるほど、個々の存在が自律性と自由とによって特徴づけられることは少なくなる。そして行動が、「自我の干渉なし」で刺激に追従するとき、人は「意識をもった自動機械」となる。ベルクソンは、われわれの日常行為の大半は、「反射運動に類似した点を多くもっている」と主張しており、他方でもっとも豊かで創造的な生活形態は、彼が「不確定の領域」と呼ぶものにおいて生起するとされた。
一見すると、『物質と記憶』のテクストは、修辞学的には温和で、いかなる社会的文化的論争からも距離を置いているように思われる。だがそれにもかかわらず、この著作がそのような論争的狙いをもっているのは明らかである。ヴァルター・ベンヤミンらごく少数の人々がいうように、ベルクソンの著作は、〔引用者補記:19世紀から20〕世紀の変わり目に広く経験が規格化され、知覚反応が自動化されたことに対する、大きな反応だったのである。大衆社会における大々的な消費が示す新たな布置は(特にそれらが目新しいものとして提示されるとき)、根本的に冗長さと習慣の産物であるように思われ、あきらかにベルクソンを動揺させるものとなっていた。ベルクソンが見たのは、人間の行動が条件づけられ、予見可能となればなるほど、人間の行動において記憶が創意に富む役割を果たすべき場所が少なくなっていくという状況であった。ベンヤミンはベルクソンを、生の哲学を代表する、すぐれた人物であるとみなしたが、これにならって以下のようにいったとしても、けっして単純化しすぎにはならないだろう。すなわち、『物質と記憶』は、「機械的なるもの」の侵入に対して、人間の生がもつ振幅と複雑さを大いに肯定した著作のひとつである、と。「機械的なるもの」という表現は、因習的な意味での技術的なもの(たとえば、シュペングラーにとってそうであったような)ではなく、彼の学友であるデュルケーム的な意味での、複雑さの欠如を表すものである。ベンヤミンは、ベルクソンの企図に対しては大きな留保を置いていたにもかかわらず、ベルクソンの絶望――個体レヴェルでの記憶の役割がますます減退していくことに対する――と、みずからの分析――集団的記憶という伝統的形態の衰退についての――とのあいだに、関係性を見いだしていたのである。(ジョナサン・クレーリー〔岡田温司〕『知覚の宙吊り 注意、スペクタクル、近代文化』平凡社〔平凡社ライブラリー〕/2025/p.364-366)
《Someone called my name from my memory》の周縁や《内緒話》の中心に登場するスマートフォンは「広く経験が規格化され、知覚反応が自動化され」る状況を象徴する小道具であるとは言えまいか。すなわち「人間の行動が条件づけられ、予見可能となればなるほど、人間の行動において記憶が創意に富む役割を果たすべき場所が少なくなっていくという」今日の状況を暗示するのである。ならば作者が描く遠心力のような力によって引き延ばされ歪められた身体は、「人間の生がもつ振幅と複雑さを大いに肯定」するための修辞的表現と言って差支えあるまい。