展覧会『ネイネイ「わたしのID」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2025年10月24日~11月5日。
銀箔の背景にマスキングの線とカラフルな色彩とで表現した少女の「大首絵」的絵画など18点で構成される、ネイネイ[neinei]の個展。
《逃げましょう》(1000mm×803mm)は画面の中央に、面積の半分を占める程の、ハーレイ・クイン[Harley Quinn]を彷彿とさせる女性の顔を左前から表した作品。刷毛跡の残る平板な白い顔に対し、液だれや噴霧のグラフィティ調の色鮮やかな表現が対照をなす。何より目を惹くのは、明るい白い肌に描かれた、顔の6分の1ほども占めようかという左眼である(右目は角度の関係でやや小さい)。黒の太い線で輪郭と睫毛などを描きアイシャドウないし隈取りのようにピンクや青緑が差され、瞳には星が瞬く。尖った鼻の下にぎゅっと結ばれた口は極端に傾いた線により意志の強さが強調される。髪はピンクと黄緑で、マスキングによる藍色の前髪が額にかかる。頭上には低く雨雲が垂れ込めるように、アルミニウム箔や黄色、オレンジ、黒などの絵具が垂れる。危機の最中にあるらしい。彼女の顔の前、やや下側には別の女性の顔がある。この場を共に立ち去る相手の顔に手を添えているのであろうか。「わたしのID」という展覧会のテーマからすれば、彼女の被る仮面ではないか。別の顔になることで現下の状況をやり過ごそうとするのである。
《次は何処へ》(750mm×2400mm)は、顔を上に上げ大きな眼を見開く女性の顔を画面中央に描く。目の周囲、舌や唇の周囲、耳や髪の一部などにオレンジや青緑が配される他は白である。面積のほぼ半分を占める顔の左右はアルミニウム箔が貼られるだけで、《逃げましょう》のような描き込みはないため、顔が浮かび上がる。上方を見遣る目は黒い輪郭線と睫毛、アイシャドウないし隈取りのような青緑とオレンジが飾り、瞳には光が輝く。ペロッと出した舌に曲げた親指の人差指を当てていて愛嬌がある。指に唾を付けて風向きを探るのだろうか。顔にかかり、あるいは周囲に吹き流されて弧を描く髪は、マスキング処理により青緑その他の絵具が吹き付けられて表現されており一層、風を感じさせる。白い肖像はタブラ・ラサ[tabula rasa]的であり、どこへ行こうとも順応する可能性を表すのだろう。(水墨画と異なり白い絵具も用いられているものの)破墨的なモノクロームの絵画《隠されない》(510mm×510mm)には、左前から捉えた女性の顔が画面一杯に荒々しく描かれ、顔の前に掲げた手の中にはアルミニウム箔を貼ったハートマークが覗く。周囲の変化により映すイメージを変えながら、それ自身は姿を変えることのない鏡のような存在であることを表わすようだ。
《ワタシはなぜトウキョウにいるのかしら》(910mm×910mm)は、両膝を突いてしゃがみ込む女性の姿を表した作品。肌は淡いピンク色が基調で、俯く顔には睫毛や輪郭を表す黒い線に濃いピンクと水色が添えられて眼が表される。両膝を突いた太腿の上に右腕が乗り、右手は地面を触れている。右腕に沿い垂れる結ばれたピンクと青緑の髪の中に中に夜の闇が覗く。太腿の影にもブルーアワーの街並のようなイメージが映り込む。昼から夜へ、あるいは夜から朝へと移り変る景観は境界を象徴する。
女性の顔を描いた作品(各400mm×300mm)を3枚を4列に並べた壁面がある。右下を向く女性の横顔《待合室》、口を歪めた《おにおに》、左上を見上げる《もういっちょう》、右に振り向いた顔を捉える《ワタシのじゃない》、目を瞠り口を窄める《深呼吸》、右斜め前からのバストショット《わかるしかない》、右方向への風を描く《またか》、食いしばる顔を上げた《ノーコメント》、左顔を捉え眼を髪で隠した《知らんぷり》、左手を額に当てた《アイアイサー》、大きな瞳で鑑賞者を見詰める《シーッ》、顔を右上から捉えた《記憶にございません》の12点である。組作品として構想されている訳ではないようだが、喜多川歌麿の「婦人相学十躰」シリーズや月岡芳年の「風俗三十二相」などを想起させる。相とはペルソナである。
和辻〔引用者補記:哲郎〕がこの短い論考を「面とペルソナ」と名付けたことの核心的理由がここに示されている〔引用者註:人体を顔面だけに切り詰めた面は切り捨てた部分を自在に復元可能である故に顔面は人の存在にとって核心的意義を有すること〕。役者のつける仮面がラテン語で「ペルソナ」personaとまず呼ばれ、それが演劇における「役柄」ないし「役割」personaの意味を担うことによって、それが西遊的にいま私たちが一般的に理解する「人格」personaに、さらにいえば「人」personaそのものを社会一般において示す概念となった事実が、言葉の含意の社会文化的変遷の歴史からはっきりとここで確認されているのである。しかも演劇における「ペルソナ(仮面)」は、人をすら超え、神や精霊さえ表象しうる媒体でもあった。仮面においては、人間世界と超越的な世界のあいだにも強固な分断は存在しなかったのである。
私は、和辻をつうじて、「仮面」を呼ぶ言葉が最終的に「人」を示す言葉へと転じていったことの深い含意をその謎めいた彩をここに読みとり、知的興奮を隠すことができなくなる。事情は古代ギリシャにおいても同じだったようだ。ペルソナに相当するギリシャ語はπρόσωπον/prosōponであったが、これもまた古代劇における「仮面」という意味から発して、「顔」の意味ともなり、さらに役柄や位格・人格、ついには人そものを表す概念となった。人の本質の背後に見え隠れする仮面。仮面から発する人の概念。「人」とは唯一無二の顔を持ち、肉体のうちに閉じられたこの個人的で主首尾一貫した自明の存在のではなかったのではないか。太古の昔から、そしていまも……。
和辻は「顔面ほど不思議なものはない」と書いた。だが、いまや私たちは「仮面ほど不思議なものはない」とこのテーゼをさらに先鋭化することができるかもしれない。人間がそうであるように、「仮面」こそ、まさに人と人のあいだの二重性・複雑な関係性をそのときどきの「ペルソナ(役柄)」とともに生きる「人間」の本質、その重層的で二律背反的な存在論を示唆する、特権的な媒体にほかならない。(今福龍太『仮面考』亜紀書房/2025/p.28-29)
「人と人のあいだの二重性・複雑な関係性をそのときどきの『ペルソナ(役柄)』とともに生きる『人間』の本質、その重層的で二律背反的な存在」を表すのが相、ペルソナである。
うわべだけの、明らかに肖像写真とかいいようのない写真を目指すべきだった。判で押したような月並みの外見から、仮面から逃れられないような写真を。仮面はなにより社会的・歴史的産物にほなからないわけだから、《ほんとう》でありたいと願うどんな像より真実をふくんでいる。少しずつ明らかにされてゆく夥しい意味を孕んでいる。――イタロ・カルヴィーノ「ある写真家の冒険」『むずかしい愛』和田忠彦、岩波文庫、1995,85頁
仮面をつけた写真こそが、いかなる像より真実を含んでいる……。この逆接的ともいうべき言明は、カルヴィーノによって、1人の女の顔のあらゆる瞬間的な陰影の変化を吟味しながら、そのなかでもっとも真実らしい1枚の写像をなんとか手に入れたいという試みが取ろうであることを察した写真家による自戒ととして描かれている。愛らしさと皮肉っぽさが入り交じる女の表情のなかで、ほんとうの性格を示している決定的な1枚を生み出すことの不可能性。それに気づいたとき、写真の、意図的ではない、偶発的な意味の真空にむしろ拠ることが、かえってそこに撮られる「仮面」の背後から歴史の深みを照らし出すことにつながる。
だからこそ、真実の「素顔」とふつう呼ばれているものを、真実の「仮面」とここでカルヴィーノが呼んでいることに、私はとりわけ惹きつけられる。哲学者坂部恵の「仮面が素顔の隠喩であると同等な視覚に於いて、素顔はマスク(仮面)の隠喩である」(坂部恵『仮面の解釈学』83頁)という、(略)が、ふたたびここで思い出される。マスク(人格=仮面)とは、けっして1つの像に帰着する同一性の結晶体ではなく、むしろ主体と客体、あるいは真実と虚偽という二元論を振り切ったところにある人間(=間‐主観的、間‐世界的な場における結節点)のあり方の秘密を指し示す概念なのである。(今福龍太『仮面考』亜紀書房/2025/p.379-380)
「ほんとうの性格を示している決定的な1枚を生み出すことの不可能性」。わたしとは移ろう存在なのである。作家は述べる。「わたしはその裂け目に揺らめく影。ひとつではない、増殖する影。複数の影は、互いに交差し、ほどけ、揺らぎの中で、わたしは立ち上げる。その反復こそが、わたしのIDである」と。だから作家は、数々の相、仮面を自らのIDとして描き出すのである。