金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』〔集英社文庫か-44-9〕集英社(2025)を読了しての備忘録
三ツ橋由嘉里は一般職の銀行員。焼肉の部位を擬人化した美男子たちの日常を描く漫画『ミート・イズ・マイン』が生き甲斐で、中でもトモサンに入れ込んでいる。同好の女性たちが結婚や出産で次々離れていくと自らの招来に不安を感じ、27歳を機に婚活に乗り出す。現実の男性と付き合ったら二次元の世界は不要になるのか確かめたいとの思いもあった。同僚・高藤恵美から引き立て役として誘われた人生2度目の合コンで、やはり2軍として参加していた初対面の女性から何故か腐女子であることを暴露された。歌舞伎町の片隅で酔いつぶれ嘔吐していた由嘉里は、通りすがりの容姿端麗なキャバクラ嬢・鹿野ライに拾われ自宅に招かれた。あなたみたいな顔に生まれたかったと由嘉里が嘆くと、300万あげるから整形手術を受けて私になればいいと勧められた。ライは死ぬからお金は要らないと言う。納得できない由嘉里に、ライはこの世界から消えているのが本当の姿で、消失して初めて存在が認められると説明した。由嘉里はゴミだらけの部屋が自殺念慮の原因だと即座に掃除する。家に帰りたくないならここに帰って来てもいいと言われた由嘉里はライの部屋に居候することにした。
「むしろどうして婚活なんてするの?」
「だって! 孤独だし、このまま1人で仕事と趣味だけで生きていくなんて憂鬱です。最近母親の結婚しろアピールがウザいし、それに、笑わないで欲しいんですけど、子供だっていつかは欲しいって思ってます」
「仕事と趣味があるのに憂鬱なの? ていうか男で孤独が解消されると思ってんの? なんかあんた恋愛に過度な幻想抱いてない?」
「私は男の人と付き合ったことがないんです」
「じゃあ彼氏がいるのといないのと、結婚してるのとしてないのとどっちが孤独なんて分かんないじゃん」
「いたことないから、いてみたいんです。いてみたい? っていうか、付き合ってみたいんです」
「トモサンへの気持ちは愛じゃないの?」
「それは、愛です。でも永遠に応えられることのない愛だし、いや、愛してるなんてちょっとおこがましいな。愛より尊ぶに近いですね」
「彼氏とか旦那が愛に応えてくれる存在とは限らないし、子供が仮に無事に生まれて仮に無事に育ったところで基本的に皆いつか巣立つんだよ?」(金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社〔集英社文庫〕/2025/p.22-23)
合コンで同席した奥山譲から予想外に連絡を受けた由嘉里は返信に悩む。
「でまだ返信してないの?」
「なんか段々腹が立ってきちゃって。だってなんか、何で私だけこんな悩まないといけないんですか? 向こうは超適当な文章送りつけてきてるのに……」
ちょっと見せてみ? と手のひらを上向けてクイクイする鹿野ライに「もし良かったがカブってるんですよこんなの1回でも見直せば気づくのに。私文章のセンスない人ダメなんです」と愚痴りながらLINEのトーク画面を差し出すと、文章のセンスのある男と付き合ったことあるの? とスマホを覗き込みながら鹿野ライが真顔で呟いた揶揄に黙り込む。
「こういうLINE書く奴って顔もバカの1つ覚えなの? って感じの顔してて絶対記憶に残らないよね」
「そうなんです。この人の顔覚えてないんです」
「じゃ何で連絡すんの?」
「えっでも無視するのは失礼じゃないですか? 連絡先教えていいって言っちゃったわけだし、それに私が選り好みするような立場じゃないし」
「じゃあんた自分に言い寄ってくる男なら誰でもいいの?」
「そんなわけじゃないけど、拒む権利なんて私にはないし」
「そんなの失礼じゃない?」
「失礼? 私が失礼? 誰に失礼?」
「あんたと大切に思ってる人に対して。それにそんな拒めない前提で関わるのは相手の男に対しても失礼じゃない?」(金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社〔集英社文庫〕/2025/p.38-39)
「…別の時代だったり別の国だったりしたら変わるような物差しで容姿を測るの?」(同p.45)、「…自分を至上の美として周知していこうっていう気概はないわけ?」(同p.45)、「こぎつけるって言い方は良くないよ。2人が望んで会ったんでしょ。無駄に自分を貶めるような言い方はしない方がいい」(同p.69-70)。憧れのライによって由嘉里は固定観念を打ち砕かれていく。
(略)生まれてこのかた傍観者で観察者で、私は現実に1ミリだって触れたことはないのだ。昨日から今日にかけて、鹿野ライと奥山譲という2人が突然私の人生に濃密に関わり始め、現実のハイレゾ化に戸惑っていた。リビングの方からピュイっと恐らく私のLINEの通知音が鳴って、何で私は鹿野ライを信用してスマホを完全委託するなんて普段だったら考えられない恐ろしい行為に出てしまったのかとぼんやりとした頭で考える。そうか彼女が死ぬからだ。彼女が死ぬことを決めているから、私は彼女が怖くないんだ。搾取されるとか痛い目に遭わされるとか、そういう可能性を考えずにいられるのだ。そう思うと、そうでもない他人に何も預けられない自分が情けなくなる。ライは本当に死ぬんだろうか。ライといる間ずっとその疑問は消えなくて、ライが好きな人と抱き合っていたベッドの上で、もしもライがその好きな人を失っていなければライは今死ぬことを考えていなかったんじゃないかと考え始めたら突然顔中が熱くなって唐突に流れた涙に驚きながらそれを拭えずにいるうちに意識が途切れた。(金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社〔集英社文庫〕/2025/p.50-51)
ライだけではない。ライの勤務するキャバクラの近くにあるホストクラブのナンバー1アサヒ、アサヒが常連の「寂寥」の店主でゲイのオシン、アサヒのミューズでこの世の全ての不幸を体現したような作家のユキと交流し、由嘉里は価値観を揺さぶられる。
ライに生きていて欲しいと願う由嘉里はある計画を練る。その計画を実行に移した結果、自らのライに対する行動が、母の自らに対する行動とパラレルだと気付く。
(略)私はライにとって相容れない母親のようなもので、ライは私にとって理解できない子供のようなものだったのだろうか。理解されないことの苦しみを知っているのに、理想を押し付けられる苦しみを知っているのに、私はライに母と同じことをしていたのかもしれない。
「いつでも戻っておいで。私はいつだって由嘉里と一緒にいたいって願ってる。ずっと会いたかった」
ライへの気持ちを代弁したかのような母の言葉に驚き、私はまた泣いた。ライに会いたかった。懺悔したかった。愛を伝えたかった。何も共有できなくても共感できなくても一緒にいたい、その色々そそぎ落としたただ1つの自分の望みを伝えたかった。(金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社〔集英社文庫〕/2025/p.253)
由嘉里の漫画『ミート・イズ・マイン』のキャラクターであるトモサンへの愛。それは「永遠に応えられることのない愛」であり、「尊ぶに近い」感情であった。生身の人間であるライに対する愛もまた同種のものだと気が付く。
「まあ、究極、会えなくてもいいんですよ。いや寂しいけどまだ普通に泣くけど。でも、会えない人を熱烈に愛して思い続ける才能が、私にはあるんです。ライさんは自分が消失しているべきだっていう希求を持つ資質を神から与えられたギフトだって称しましたけど、私には、2次元、2.5次元、そして消えてしまった思い人を温かい気持ちで思い続けられるギフトが与えられてるんです。私は自分がこのギフトを持って生まれたことに心から感謝しています」(金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』集英社〔集英社文庫〕/2025/p.275-276)
実際、ライは自らの名をlie=嘘に重ねていた(p.12)。ライは言わば架空の存在に等しい。同時に、ライの音はlgiht(あるいはray)=光にも通じよう。光は「ながむる人の心にぞすむ」のである。
ライに光を重ねるのは解釈は、万華鏡の喩え(p.6)や「ライが光を与えてくれる」(p.281)などが根拠である。本作を原作とした映画では、由嘉里がライとともに朝陽を眺めるシーンが描かれ、ライに光を重ねていた。
「ウォーター!」(p.188)はヘレン・ケラー[Helen Keller]のエピソードを踏まえているのだろう。
「乗り換えですよ」(p.196)は、アサヒに奥さんから自分に乗り換えて欲しいという由嘉里の潜在的な欲望を表す。