可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 浅葉雅子個展『檸檬爆弾』

展覧会『浅葉雅子展「檸檬爆弾」』を鑑賞しての備忘録
コバヤシ画廊にて、2025年11月3日~8日。

春画のイメージを組み込んだ女性像で構成される、浅葉雅子の個展。

檸檬爆弾」は、梶井基次郎(1901-1932)が100年前に発表した短篇小説「檸檬」(1925)を下敷きにする。憂鬱な「私」は漫ろ歩くうち八百屋で手に入れた1個のレモンにより一旦は幸福感を得たが、書店で画集を眺めると愛好するドミニク・アングル[Dominique Ingres]まで耐え難い。

 「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試して見たら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれは出来上った。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみは寧ろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、何喰くわぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」(梶井基次郎檸檬」同『檸檬』新潮社〔新潮文庫〕p.15-16)

梶井基次郎の『檸檬』や喜多川歌麿ヴォルフガング・ティルマンス[Wolfgang Tillmans]、春画の作品集を積んだ上に、それぞれ"Life"、"Soiitude"、"Love"と記されたレモン(一番上の"Love"だけ半分に切られている)が重なる《Life・Solitude・Love》(273mm×190mm)や、パステルカラーの画集の山の上方でレモンが弾ける《黄色い爆弾》(227mm×158mm)などが事務室に飾られている。
表題作《檸檬爆弾》(894mm×1455mm)には、銀箔を背景に、黒いTシャツに黒いミニスカートの2人の女性がそれぞれ右手にレモンを掴み並んで立つ姿が表される。左側の少女の鼻から上、右側の背の高い少女の顔、2人の少女の脚は画面から切れていて匿名的な存在とされている。背の低い左側の少女の右腕の辺りで爆発を思わせる煙が渦巻く。2人の胸の辺りにはスマートフォンの画面をスワイプした(あるいは曇った窓を手で拭いた)ような赤い画面の中に漫画調に変換された春画(鳥居清長《袖の巻》)が表される。女性に覆い被さる男性の衣装の格子模様がデジタルイメージを喚起させる。春画の部分からは赤い液体が垂れる。破瓜を連想させる。ところで、セル画のような表現の制服姿の少女と喜多川歌麿《歌満くら》の一場面を組み合わせた《幻影の彼女たち》(530mm×530mm)では、少女の顔が描かれていない。匿名化は女子高校生のイメージだけを強調する。他方、歌麿春画は男の腕に歯を立てる女性が表される(メイド姿の少女と春画を組み合わせた類例作品《虚空の幻影》(530mm×530mm)もある)。少女のイメージを消費する社会に対する揶揄である。翻って、破瓜的な血の滴りは、少女イメージによる塾の象徴であり、処女性の否定を媒介に少女イメージの消費を否定する。レモンの爆弾を握り締める2人の女性の身体からも赤い液体が滴るのも同旨であろう(後掲作品においても血の滴りの表現が認められる)。
《爽快な破裂》(1570mm×1810mm)は、黒いワンピースを着たミディアムヘアの女性が前屈みになり腹部を押えて嘔吐する場面を描いた作品。黒いワンピースの襟の無い首回りにはネックレスのように飾りが付いている。左側だけ黒地に白い線で漫画調の春画(鳥居清長《袖の巻》)がプリントされているのが片身替のようだ。腹部を押える右手の甲に見える髑髏のタトゥーがパンクな印象を生む。半ば目を閉じた女性の口から飛び出すのは漫画における爆発表現のように表現された吐瀉物である。でされたもくもくと湧き上がる煙に放射状あるいは稲妻のような光が飛び散る中、檸檬、蝶、ハイヒール、頭蓋骨、セーラー服やチアリーディングの少女、赤頭巾と狼、妖精などである。呑み込ませられた少女に纏わるモティーフを吐き出すことで拒絶している。《檸檬爆弾》と同主題の作品である。嘔吐からの連想で、誤読を承知で、敢てサルトルジャン=ポール・サルトル[Jean-Paul Sartre]の『嘔吐[La Nausée]』の一節と本作とを結び付けてみたい。

 そして、突然、一挙にしてヴェールは裂かれ、私は理解した、私は見た。
 重荷を下ろしたような感じでもないし、満足したと言うこともできない。逆に私は圧倒されている。ただ、目的は達成された。知りたかったことを知ったのだ。1月以来わが身に起こったすべてのことを、私は理解した。〈吐き気〉は去らなかったし、これがそうすぐ去って行くとは思われない。しかし私はもう〈吐き気〉を耐え忍んでいるわけではない。それはもはや病気でもなければ、一時の気まぐれな発作でもない。私自身なのだ。(ジャン=ポール・サルトル〔鈴木道彦〕『嘔吐』新潮社/2010/p.211)

芸術が爆発なら、嘔吐でもある。 ならば芸術=嘔吐は無論、作家自身に他ならない。
檸檬爆弾》の向かいに展示されるのが、年配の女性の胸像《全てを抱く》(894mm×1455mm)である。目元から上は画面から切れていて、やはり匿名的なイメージとされている。黒い服にはレモンの花がプリントされ、両腕で胸を覆う右手にはレモンが握られる。左肩の辺りでレモンは爆発を起こす。女性、狼、ウサギ、ハイヒール、アイスクリームなどが弾け飛ぶ。女性に押し付けられた固定観念に対する忿懣を抱え、吐き出すことなく抱えている。春画のイメージが輪郭線のみで、なおかつ緑で重ねられるのも、《檸檬爆弾》の赤い春画イメージと対照をなす。

梶井基次郎が「炭鉱のカナリア」であるなら、作家もまたそうだろう。映画『爆弾』の上映と重なるのも単なる偶然ではない。