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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 枝史織個展『未来に還る』

展覧会『枝史織個展「未来に還る」』を鑑賞しての備忘録
銀座 蔦屋書店〔GINZA ATRIUM〕にて、2025年11月1日~19日。

自然と人工、海洋と陸地、天と地のような対照的な場面に裸体女性を配した絵画34点と立体作品1点とで構成される、枝史織の個展。

環境問題が初めて世界規模で議論された国連人間環境会議が開催されたのは1972年になってであった。掛け替えのない地球が失われようとしているという危機意識は未来像にも影を落とす。

 SF映画が未来の造型を提示できなくなり、過去の懐古趣味的なモードを用いることによって「進歩」するSF像を否定するようになったのは、1970年代後半のことだ。(略)
 しかし、このデッドテックとレトロ・フューチャーの療法の美意識を包含した傑作は『ブレードランナー』(82)だろう。酸性雨降りしきる2020年のロサンゼルス、「強力ワカモト」のキッチュなネオン広告、支那そば屋……。レプリカントとの最後の死闘の舞台となる古びたビルは、1893年につくられ現存する由緒あるブラッドベリー・ビルディングである。さらにハリソン・フォードが自宅で使うコンピュータは、音声入力のくせに外観は、まるで旧式のTVのようでしかなかった。リアルな未来は、バッド・テイストでしか表現できない、とでもいうかのようにそこには「過去」、「デットテック(廃墟感覚)」が入り込んでいた。(長澤均『パスト・フーチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社/2000/p.197-198)

《SENTAKU》(1620mm×1620mm)は、闇の中の紅蓮の炎を描いた作品。炎は30~40メートルの高さまで燃え盛り、その上には濛々とした煙が拡がる。炎の下部には格子状の構造体の影が見えることから、建造物の火災であることが分かる。画面下端の中央に炎を見詰める赤い傘を差した裸体女性の後ろ姿がある。《MIKKAI》(1620mm×1620mm)は、赤い傘の裸体女性が見詰める瀑布が描かれる。一面の落水から生じる水煙が立ち籠める。《SENTAKU》と《MIKKAI》とは、火と水、上昇と下降という対をなす。
同様に、《Back to the Future Ⅰ》(1620mm×1120mm)の炎上する船舶に対して《Back to the Future Ⅱ》(1620mm×1120mm)の水没した旅客機、あるいは《The gound rises form the sea》(970mm×1940mm)の砂丘に半ば埋まる船舶に対して《The sky sinks into the sea》(970mm×1940mm)の水中の戦闘機、また、《Nowhere Ⅰ》(1455mm×970mm)の砂漠にに人差指を立てた左手に対して、《Nowhere Ⅰ》(1455mm×970mm)の水に指先を浸した左足などでも対照的な作品を組み合わせている。いずれの作品でも必ず裸体女性の姿が配される。

「未来に還る」を冠した展覧会に並ぶのは、燃え尽きる建造物であり、全てを呑み込む水である。男性が支配してきた資本主義経済と科学・技術とが招いた膨張主義の招いた破綻。
第4回パリ万博(1889)のエッフェル塔、ニューヨーク万博(1939)のペリスフィアなど、塔と球体建築は万博の象徴的造型として繰り返し現われる(長澤均『パスト・フーチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社/2000/p.49-52参照)。日本万国博覧会(1970)の「太陽の塔」、日本国際博覧会(2025)の「大屋根リング」もまた然りである。

《Tour》(970mm×1620mm)は、島(砂州)に建てられる木造の塔と塔に集う人々とを描いた作品。砂浜には7艘のボートが碇泊する。砂地に降り立った女性たちは塔に向かって祈り、佇み、力尽きて倒れる。中には釣りをしたり貝殻でも拾っている者もいる。板を立て掛け、あるいは縛って組み上げた塔には壁に鳥や魚を描く者の姿もある。一番高くまで昇った者は両手を拡げて立つ。いずれも裸体の女性たちである。闇の中に聳える塔の尖端は見えない。
《Tunnel》(1303mm×1940mm)は屹立する岩壁に穿たれた巨大なトンネルを訪れる1人の裸体の女性を描いた作品。砂地のような滑らかな土地から突如垂直に岩壁が切り立つ。テーブルマウンテンのように頂部は平坦で草地が拡がる。僅かに見える空には雲が垂れ込める。岩壁の中央に正円の開口部を持つトンネルがある。内部に足を踏み入れた女性から判断すれば、トンネルの直径は30メートル近くありそうだ。トンネルの壁は掘鑿により滑らかで、下部には外に拡がる土地と同じ砂が溜まり、出口の見えない闇へと連なる。
《UTSUWA》(1620mm×1620mm)は、平坦な岩場の中にある円形の湖の水面に揺蕩う1人の裸体の女性を描いた作品。象牙色の岩場にあるクレーターが瑠璃色の水を湛える。正円に近い湖の直径は50メートルはありそうだ。明度の高い水はクレーターの擂鉢状の構造を露わにする。同心円状の線は渦のイメージを喚起し、両腕、両脚を開いて湖水に浮かぶ女性が水底に吸い込まれるような感覚を生む。画面の上半分を占める空には一面雲が拡がる。

塔という男根のメタファーが消失する。全てはトンネルやクレーターという女陰へと吸い込まれていく。廃墟としての未来が起ち上がる。

 (略)輝かしき未来、そして商売にもなる未来。ようするに売られ、消費される「時間」、それが明日=未来だったのである。企業は「Tomorrow」をワンパッケージにして売り出す方法を万博を通して探り当て、それをパノラミックな手法で展示し商品価値を高め、消費欲動を刺激する補法を洗練させていったわけである。
 (略)
 未来そのものは、この〔引用者註:1964年〕ニューヨーク万博あたりから次第に翳りをみせてゆく。60年代後半のスチューデント・パワーとヒッピー意運動は、こうした産業主導の未来像にノンを突きつけていった。そんな状況のなか臆面もなく「未来」を謳ったのが70年大阪万博だったわけだ。
 1964年ニューヨーク万博の象徴〈ユニスフィア〉〔引用者註:地球儀状の構造物〕は、博覧会終了後も会場となったロング・アイランドのメドウ・パークに保存されたらしい。(略)朽ちつつある巨大な鉄骨の地球儀は、ボディ・コンシャスの「ピンキー&ダイアン」〔引用者補記:の広告写真〕に使われることによってバブル経済デカダンな廃墟のように見えた。
 (略)
 そういう意味でも万博とは、もはや「過ぎ去った未来」のことであり、おそらく70年代以降、破産した概念なのだ。(略)過去の万博史が教えているはずだ。楽天的な未来像が残すのは、夢の廃墟に過ぎない、と。おそらく「未来」とは、手の届かぬほど遠くに追いやっておけばそれでいいのだろう。(長澤均『パスト・フーチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社/2000/p.60-63)

会場の中央に設置された唯一の立体作品《Installation》は、焦げた縁の布の上に両手で耳を塞ぎ膝を曲げて蹲る女性の像が石の欠片のようなものと散らばる。それらは全て白いが、1点だけ灰色の像がある。布の周囲には赤く塗られた同じ姿勢の女性像と黒い石の欠片が置かれる。どちらも50体ずつ、計100体ほどが並ぶ。

 (略)SF映画草創期の衣装をみると、おおよそSF的モードの指標となるべきものが、何であったかは窺うことができる。それはボディラインにフィットしたシンプルな造型をもち、なるべく無機質で無装飾であることだ。さらにジェンダーを意識させないデザインであれば、なおのこと「未来的」になるはずである。(略)
 ジェンダーレスなモード、それはユートピア的な共和制を想起させ、さらには性欲という原初の欲望の抑制をも表徴することによって「未来」を指し示すものであった。(長澤均『パスト・フーチュラマ 20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社/2000/p.187-190)

《Installation》における同型のたちは究極の無装飾として裸体である。だがその肉体は性的である。ならば欲望のコントロールはいかに表されるのか。それは、男性像の不在によってである。クローン技術により有性生殖自体が途絶えたのだ。だから絵画には女性しか姿を表さないのである。その象徴が失われる塔と、果てしなく続くトンネル=穴であった。